前川國男建築の中で響きつづけた高橋アキさんのフェルドマン。
- yumiko segawa
- 6 日前
- 読了時間: 4分
前川國男建築の中で響きつづけたアキさんのフェルドマン。
---「僕の思想は昨日(読)んだ本」
の近藤譲先生流で云えば、昨日演奏した「メシアン:アーメンの幻影」は、音型ごと、感情ごと、オーラごと無意識に体に染み込んでいる…
今日はそれを自覚の上で、フェルドマンを4時間浴びてきました。共に歩きました。歩ませていただきました🥹🐾
ふと、『アーメンの幻影』の3曲目「苦悶のアーメン」の場面の途中にあった胸が張り裂けるようなc-cis-d-esの4音音型の表現…これに出会えばどんなに違うシチュエーションであっても耳をそばだててしまう。
今日のフェルドマンにも偶然、その4音音型が執拗に現れるときがあった。昨日は私のパートではなかったけれど、上記のメシアンの“苦悶”のフレーズはなにか体に入ってしまう。結局音型は感情に結びついて、離れない。
これは、やっぱり聖句の、言葉の力なのですね。
でも、今日のフェルドマンの音楽で感じたのは、そこには “言葉がない” ということでした。
メシアンのその4音とはまったく関係がない、苦悶の味のしない、解放された中間領域のフェルドマンの反復…
反復音型だけれど、それは「慣例」のようでありながらも、それはまったくありきたりな慣例をいっさい拒絶する、本当にまったくの、「音」の世界だった。
その意味で、ひょっとして昨日演奏したメシアンはあまりにも「音」の世界ではなかったのかもしれないと…😶🌫️
あれは、あくまで「言葉」の抑揚であり、言葉(聖句)に深く刻み込まれた(もう鳥の声も神の声か?!)溢れんばかりの「感情」だったようにも…🤔
うってかわって、本日のコンサートは全ての感情と結びついたフィギューラから断ち切る“お祓い”の儀式のようだった、今日のフェルドマンの長い長い未知の砂浜。
ある種「連帯」を拒絶しつつ解放していく“非属”を選択し続ける未知の長い砂浜…🫧
あっという間だったなんて言いません。
正直ほんとうに、ほんとうに、長い砂浜でした🥹
こんなにも、聴き手が共に「歩む」手触りを実感できる音楽。
だからこそ、アキさんの演奏と共に、“帯”のように、聴き手にはそれぞれにある種の「ゾーン」体験の幾種類かが経験されたはず…。
耳は開いているのに、目は閉じている。ふと、ちょっと何秒か前のことは覚えていない…そんな瞬間が、私の場合「バニータ・マーカスのために」で訪れました。心地よく。でも、終わりそうなのか終わらないのか、不思議な、もう少しで苦渋に傾きそうなほどの「遅延」を肌で感じることもありました。
それでも、決して、「感情」は動かないのです。
柿沼敏江先生が、フェルドマンはいみじくも“美しい”音楽とおっしゃいましたが、もちろん日常で、人間同士の対話の中でこの“美しさ”に到達することはなかなか難しいはず。
これは温かくもないし、優しいものでもない。
結構、現実的でもある。
美しさって、生きながらして彼岸を見るような行為なんだな、きっと。
フェルドマンの言う「記憶」の性質について、ちょっとかんがえる時間を随分と持てた気がする。
「感情」にはこないので、、、決して「感情」で蘇るような性質の「記憶」ではない。
弾いているアキさんはどうなのだろう?
リムさんの捲るタイミングを時折、手で🖐️ストップをかける場面も…それでも音質は、変わらない。
何があってもそこに流れる“時間”が変わらないのが何より、アキさんの凄みのように感じます。
そして聴いている私は休憩ごとに席を替えました。
だから、「トライアディック・メモリーズ」
と、「バニータ・マーカスのために」、そして「マリの宮殿」を聴いた場所と音の印象と体調は毎回違うものでした。その間、きっとアキさんだって変わっていらっしゃるはず。そして、その間に、今日はフェルドマン77年の「ピアノ」から始まって、最後の「マリの宮殿」は86年の作品。プログラムを経るごとにフェルドマンも年を召されている…⏳
少しほんのり疲労感が漂う私の今日のこの感覚で受けとめるアキさんのフェルドマン… “彼岸”を見るように、良い時間だった🪽


















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