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リサイタル後に---「作品:全体/断片」       L' Oeuvre: Tout/Fragment               

  • yumiko segawa
  • 2025年12月16日
  • 読了時間: 6分

もうすぐ次の木曜日が来るけれど、こちらはその前の木曜日のお話。


〈ブーレーズのifを探る…🤫〉


私は再び、9月の“アシタカの呪縛”の話に戻ることに↩️


野平一郎先生が最後に密かに提起されたブーレーズの「if」 とは…


---もし、ブーレーズが「セリーの拡張」に全人生を投じることにならなければどうだった?


---時代が動いていく中で、数十年後にまたwork in progressを続けていくあのブーレーズの「地続きの間隙…」は、果たして“最良”だったのか?


というもの。


野平先生がブーレーズを語られる時には、必ず「引っかかるもの」が聞こえてくるのです🥹

ご自身が🇫🇷で過ごされてきた環境、方向性から、ブーレーズと距離を置かざるを得ない微妙な表現を、私は見逃さないように努力しました。。


12/5 @日仏会館のレクチャーと共に、昨年2/25 @ベルク協会(東京現音さん「サテュラシオン」公演プレトーク)の内容を追想しつつ、できる限り暗示的に問いかけたい内容です。。

そして、ブーレーズを大絶賛することだけが、「ブーレーズ100」の意義ではないはずで、私の中でしっかりと目と耳を開いて享受したい問題なのです🤔


敢えて、私なんぞが勇気を持って申しますれば…


それは、ブーレーズの“不器用な”一面。


その電子音響でのブーレーズの「躓き」こそ、今後のブーレーズ研究の鍵🔑を握るものになるのではないか…


21世紀のフランスにおけるノイズの探究「サテュラシオン(飽和)」、「イティネレール」は、ドゥフールによる理論的な補強と共に実験的室内楽グループと、電子楽器グループの下位の2グループの実演によって、セリーを排除し、精緻な音色を探究していく。

スペクトル楽派、サテュラシオンで音色の探究をしていった人が、Boulezが基盤を創ったイルカムで活躍する…。


今は、つい先日の「力のための詩(1958)」の電子音響パートのAIにより復元された(長木誠司先生からの補強情報✨)ことにも象徴されるように、ブーレーズが構想していたような、『音楽家と科学者が協働して未来を作っていく』ものが、AIによってさらに展開しようとする道筋が確実に見えているようです✨


1980年代当時、フランス留学していた野平先生が肌で感じ取られ、音感としてあったものは、

「ブーレーズ的なもの / スペクトル的なもの」

こうした二分的なものだった、と。


電子音響のブーレーズの成果は、道半ばで、いったい取るに足らないものだったのでしょうか…!?🤔


会場では、撤回された1951年の "Etude II sur six sons". (Cherry Red Records, 2022)の音源が流れました。

湯浅譲二先生のの「プロジェクション・トポロジク」の方向性も連想したくなった…


そこで、電子音響の世界を目の前にしての「テクノロジーのために」の中、Paul Klee作品「豊穣なる国の果てで」と題されたブーレーズの論考を再び読んでみる📖

(『ブーレーズ音楽論-徒弟の覚書-』p.206〜)

1960年代に書かれたもの故、音響の方々にとっては「古い」と言われる内容なのかもしれませんが、少し短絡的な言い方をすれば、

この電子音楽の未分化の音色の世界に対峙する際に、セリーという概念の拡張をしなければならぬ!という、宣明にも聞こえるものです。


作品の修辞学的に、形態学的な面において…🤯


あくまで、「器楽を支配するもの」と、「音響を支配するもの」は、一歩が他方に変わってしまうものではないし、一方が他方へ進歩するものでもない、と。


その意味で、『音響音楽の探究の調整 IRCAM』研究所の必要性があると。


さぁそこで、レクチャーの最後に『レポン』を聴いてみましょう!でもなく、この野平レクチャーで皆さんと聴いた最後の曲は、『エクラ』でした。


それは、改めてあの場で聴いて新鮮で不思議な体験でした。

私が12/6リサイタルで、一番最初に弾かせていただいた意味深な『第3ソナタ』の「フォルマン1- アンティフォニー(断片)」で慣れ親しんだものが聴こえてくる…🤫


この「アンティフォニー」って、1963年まで完成を思って引きずって書かれた断片のようだけれど、「エクラ」からは、「アンティフォニーのトレ・イニシャル」で特徴的だった、


・背景に鳴り響くトリル

・特徴的和声の身ぶり

・「レポン」でelec.のソリストたちの登場を告げるあの和音…


が亡霊のように響いてくるではないか!


あぁ、これは「アンティフォニー」の1年後の1964-65年の作品でした…


「7つのエクラ」と題され、

「破片」、「輝き」、「鮮やかさ」、そのほかにも「大音響」と、多意味を含みもつ、このフランス語の「éclat(エクラ)」を見事に暗示させた木曜日の野平先生のレクチャーの構成もまた心底納得してしまうものでした。


---論客・作曲家としてのブーレーズの創作の軌跡をたどる---


“器用に、段取り良く、ものごとが収まること”、それはとっても気持ちが良くて、仕事ができる人の鉄則のはずなのに、、なんだか次第に、そこには確固たる信頼を置けなくなってくる…


それは、何かを「諦めた」時に見える終着点🚩


不器用そうに見える面こそ…

不器用な“未完成”こそ、正義かな🕺✨


ブーレーズが残したことには、「皮肉にも…」ということがあり過ぎる🫣


このレクチャーで紹介された、気になった重要な出来事を以下にいくつか挙げておきます⤵️


◉30年経って、微分音システムは全て廃止され、半音システム(12音)として書かれる(❗️)

By 改作と増殖のケース①

「婚礼の顔 -Le Visage nupital-」が、1951-53年に2回目の改作・増殖した30年後の1985-1989年の最後の増殖 より


◉最後までオペラの構想を持っていたとインタビューで幾度も答えていたにもかかわらず、その「オペラ」のスケッチは1枚も見当たらない…(❗️)


◉撤回された『Marges -6人のパーカッショニストによる(6人の俳優による)』は、ブーレーズの「セリー拡張」とは違う未来を描いたかもしれない方向性だったか?


なんと1970年代以降(ブーレーズ50歳以降)に書かれた作品はすべてがSacher の「6音セリー」と、Stravinskyの「7音セリー」の2つだけの礎で成り立っている…


私は先日のリサイタルで、そうした礎にある作品を「アンシーズ」を含めて、3曲弾きました。


それにしても、セリーへのなんという固執!!🧐


まるで『フーガの技法』を、ずっと奏で続けていたかのように…


(※つい昨日、ストラヴィンスキー研究者の池原舞さんとお話していて伺えた事ですが、均等でない「7音セリー」にこそ、Stravinskyはセリーの未来を描いていたようです。その意味では、ブーレーズの12音セリーの4分割は、ウェーベルンやベルクとは違って不均一→『ピエール・ブーレーズ 現代音楽を考える』p.108〜参照。

されど、ブーレーズはシンメトリーにこだわっていた…🤫)


最期は、バッハと同じ緑内障で苦しんでいたなんて!


しかし、ブーレーズはそのセリーに拘りつつ、「拡張」の可能性こそ、慎重に慎重すぎるくらい吟味されたのではないでしょうか…この細い糸の先を🪡見届けたいです。


---機械にできることのすべては、一人の演奏家のもついろいろな能力に比べれば、沢山あると同時にきわめて少ない。(by Boulez)


これは、上記で上げたテクノロジーについてのブーレーズ論考:「豊穣なる国の果てで(パウル・クレー)」の中の一文ですが、まずはやはりここから、ブーレーズ作品の演奏をまた開いていく可能性に賭けたい✨


やはりテーマとしては、コレージュ・ド・フランスでの最終講義。最後に、このブーレーズの言葉でとりあえずは締めておきます📝

これはこれからの人生、何度心の中で思っても良いことかもしれない🥹


---「作品:全体/断片」L' Oeuvre: Tout/Fragment

 

私たちが知っている「作品」は、真の全体なのだろうか?それともむしろ、より広大で未完成のプロジェクトの、期間の限られた「断片」なのだろうか?しかしそのプロジェクトがなければ、その断片は存在することも、全体という幻想を与えることもできないだろう。


'Est-ce que l'œuvre telle que nous la connaissons est un tout véritable, ou n'est-elle pas plutôt le fragment limité dans le temps d'un projet plus vaste, inabouti, sans lequel, toutefois, ce fragment n'aurait pu exister et donner l'illusion du tout?' Leçons de musique.---

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