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  • yumiko segawa

3/15「B→C」 解体図譜 ★その3★再解釈・変換の諸問題①~寅年のBeeに捧ぐ。道草編



3/15「B→C」解体図譜★その3★


再解釈・変換の諸問題①

~寅年のBeeに捧ぐ。道草編。


時々、「他者」とコミュニケーションをしていると、同じ言葉を使いながらも全く違うことを考えていた、という衝撃的なことに気がつくことがある🤔


例えば、「ビートゥーシー」。

そういえば、音楽家の中でも混同して使われているこの2種😶↓


「B→C」

と、

「B to C」。


なんと、この2つの表記では、自分の生きる業界によって、使われる意味が全く違うものであるらしい…

企業の方とこの話をすれば、一発で話が食い違う🤣🤣


片方は、オペラシティのリサイタルシリーズの略称

「Bach から Contemporary」


一方はビジネスモデルの略称

「Business to Consumer」


「音」が同じ、この2つのシニフィアン(意味するもの)には、ただ単に偶然の一致で、なんの関連性もないから驚きです(゜_゜;)


でも、肝心なのはこのたった3音節で、それぞれ瞬時に “あるお決まりの世界” をイメージしてしまうこと!

(その、「お決まり」というのもどうも臭いけれど・・・)


ある種の共通のお約束ごと、『レフェランスとなる言語』が限定的であればあるほど、他を理解しえなくなってしまうことも。


もちろん秘密の暗号の存在、秘密結社も、時に重要。


でも、その自覚が薄れてくると知らず知らずのうちに重症患者に❗


その世界だけに浸かっている人間は、自分の偏狭ぶりにすら気づかない!😹


(じぶん、よくある…(^^;)


だから、「他者」の存在は重要で、「他者」とかかわり合わないと偏狭人になってしまう!


だから、それではだめだ!誰かと関わらなければ!

できるだけ遠くの誰か、誰かと、関わり続けよう/^^)/^^)/~~~💦


でも、そのうちにそこで、何らかの狭い「他者」の集団が形成されて、、


その中に入れば、またその中の偏狭者になって、


知らず知らずに「レフェランスの言語」も、また、偏狭なものになっていく・・・


あぁ、これではまただめだ!😱

んじゃ、また、外へ、外部へ!!(/^^)/(/^^)/💦


・・・と、果てしない連続…。


でも、こんな忙しい滑稽な繰り返しをよそに、すべてのしがらみを越えた強烈な「レフェランスの言語」を発するド天才が現れたら、どうする??


あぁ、あのたった1音で会場を1つにできてしまう瞬間に出会った時にだけは!😹


自分たちが「ベートーヴェンを知っているだけの偏狭者」とは思えない!!!😹😹😹


そう、ちょっと前置きが長くなったけれど、この新春はじめてのコンサートは、ベートーヴェン尽くしのこちらでした❗


1/5(水)オペラシティリサイタルホール

アンサンブル・コンテンポラリーα定期公演2022『歪み、隔たり、ベートーヴェン』


ここで、ラストの曲がマウリシオ・カーゲルKagel :「ルートヴィヒ・ヴァン」でした。


とにかくここでは、様々なBeethovenの作品の一部が演奏上、モンタージュとチャンスによって、演奏者も聴き手も、カーゲルによってリアライズされた「ベートーヴェン」を体験することになる。


実に月並みなことなのですが、

たった2音の連結、いや、1音だけで、あの彼の作品場所、あのエネルギー、あの方向!

ってわかるのだから、、、すぐさま「笑いが取れる」!😹

そのベートーヴェンの「力」って改めて、「奇跡」としか思えませんでした👼


でもそれを成し遂げたのは、作曲家のマウリシオ・カーゲルではなくて、「ベートーヴェン」なのであって😹


その彼の威力の使い道と配置だけで人を導ける。


---ベートーヴェンが残したものって、作曲?

作品は幻想?

実は、存在するのはあの破片のスケッチノートだけ?

そもそも彼は人間だったの??😲


「カーゲルに、感謝!!」


もちろん、このコンサートは「ベートーヴェン」が中心かつ不在であって(笑)、


鈴木純明さん、伊藤弘之さん、田村文生さんという日本の作曲家が何かしらBeeからの恩恵、想起されるもので、それぞれに素晴らしい作品を発表された、有意義な面白い演奏会だったのです✨


しかし、その中でただひとり、解説文にも、ベートーヴェンの「ベ」の字も、明らかな引用も盛り込まずに、果敢にGoing my way を貫いた若い作曲家がいました!


彼は、Beethovenの素材を使うことなく、なんと自分の旧作を下地にしたのです😲


それが北爪裕道くんだった訳ですが、


自らのSaxと電子音響のための旧作→電子音響パートを器楽アンサンブルによって再解釈していく。


ある意味、このコンサートの肝、こんな、偉大な、便利な、Beeの「レフェランスの言語」がありながら、具体的に頼ろうとしない。あっぱれっ?!


要するに、自らがBeethovenになったとも言える!!


そうか、こういうBeethovenの使用方法があったか🤔

そう、合言葉は、「I´m Beethoven」でしたね👍


って、これも私の勝手な再解釈なのであって本人の意向とも違うかもしれない🤣


けど、この解釈は気に入っているので、自分でも撤回しようとも思いませぬ。


もしかしたら、暑苦しいBeethovenに関わるのがめんどくさかったのかもしれない?!

もしくは、「内部からのエネルギーで、やがて音楽は激しく動き出す」という北爪さんの解説通りの新曲でしたので、

「エネルギーのみの抽出」という、Beeを越えた、いや、Beeを突き動かす

「エネルギーで、作曲する」

「エネルギーを、作曲する」

を彼なりに形にしたのかもしれないですね。


って年女の可笑しな幻想はこれまで!🐯


さて、色んなことを書きなぐりましたが、本当はベートーヴェンについてなんか書くつもりはなかったのです。


だって、私の3/15「B→C」ではBee様の作品は1曲も弾かない訳ですから。https://www.operacity.jp/concert/calendar/detail.php?id=14380


でもBeeは、そこに居ても居なくても、測りしれない、測りうる者。


この投稿では、本当はピエール・シェフェールの「音楽・理論・情報理論」の論文を下地に、音楽的なものと科学的なものを越えた、「人間的環境の分野」を真面目に考えてみたいと思って書き始めました。

「電子音楽」について、

「新たな聴くこと」を。


また、自らが「I´m Beethoven!!」である、例の若い作曲家Kさんの、

エレクトロニクス⇔器楽アンサンブル

の取り組みについては、色々思考しなくてはならぬので、次回また。


では最後に、上記のグタグタ語りをアナロジーとして、ハイライト版のつもりで、以下に。


---ソシュール(1916年)以来の言語学が、西洋言語のグループだけを対象とすることをやめたという点において(!)、《普遍化》された、ということは広く知られている----Schaeffer

ええと、最後に、この文中での《普遍化》の正体が、この投稿中では暗に、ここではBeethovenだった訳ですが、彼がいかに「例外」であったかは申し添えなくては!


だって、彼が《普遍化》したその音は、ド西洋の「Ⅴ-Ⅰ」(symphony no.1の出だし)であったのですから😹

いくらしょっぱなから下属調であっても!!

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