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  • yumiko segawa

ドイツ語学文学振興会発行『ひろの』誌 掲載「ピアノリサイタルの新しいあり方」



このたび、恐れ多くも 「独検」でもお馴染みの、公益財団法人 ドイツ語学文学振興会が毎年発行している『ひろの』誌に、いちピアノ弾きとして寄稿文を掲載頂きました。

題して、「ピアノリサイタルの新しいあり方」。

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慶応大学教授 ゲーテ研究者でいらっしゃる粂川麻里生先生の、寛容なお心遣いに感謝申し上げますm(__)m 秒速のように迅速でかつ的確、温かい粂川先生の添削のご対応により、私の読みにくい文が、皆様にも伝わりやすい文に生まれ変わっております(;_;)

恐縮極まりないのは、日本でのドイツ語やドイツ文学の普及、促進活動に従事し、「独検」を主催される会である故、ここでは、日本の優れたドイツ文学の研究家でいらっしゃる東大や一橋の教授の先生方のコラムやドイツ語の堪能の方が大半!これでは、まるで私自身もまるでドイツ語がとてもできる人のようです!!!(゜ロ゜ノ)ノ

しかし、以前の2週間近くに渡ったパウル・クレーを巡る旅の道中も適当なカタコトドイツ語で、しかも帰国後はパーに(^_^;) これを機に、中断しがちな地道なドイツ語のお勉強もちゃんとしなければ!

たしか、ピアニストの藤原由紀乃さんは、こちらの独検1級1位を受賞されていらっしゃる。尊敬する日本の大ピアニストです(ノ´∀`*)

さて、芸術・政治・文化と幅広い視点でFBを通しても私たちに日々様々な視座を投げ掛けてくださる粂川麻里生先生ですが、きっかけは、2015年の私のリサイタルで、作曲家・夏田昌和先生の新作の初演を聴いて頂いたことでした。

それから2016年より、瀬川リサイタルvol.6、7、8で、パウル・クレーの造形思考や作品をもとにコンセプトとして編み込んだ自称「クレー・リサイタル」の3つの企画をしてきました。粂川先生はその3つのリサイタルに足を運んでくださいましたm(__)m

今回の寄稿文の内容は、その「クレー・リサイタル」の成り立ちやその企画に込めた私の“聴く”という行為への狙いをそっと綴らせて頂いたものです。

思えば、このコラムの「新しいピアノリサイタルの~」は、2017年に東音ホールでの『音楽を愛するプレゼンテーション(通称:音プレ)』の時と同じ題名になりましたが、勿論2年経た今では、もう少し内容に踏み込めたかなと思っております(^^)/

発売まであと6日に迫った『アフロディテの解剖学』は、まさにこの「クレー・リサイタル」の凝縮版のライブアルバムです♪

※なお、『ひろの』誌はフリーペーパーとして色々なところに配布されているようです(^^)/

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 『ひろの』 2019 59号 公益財団法人ドイツ語学文学振興会  コラム掲載 P22

“ピアノリサイタルの新しいあり方”を求めて                瀬川裕美子

 私のピアノリサイタルのプログラムは、ずいぶん変わっているかもしれません。バッハからロマン派、近代、現代邦人の委嘱作品に至るまで、個性的なそれぞれの作品がひとつの“詩的なテーマ”のもとに、相互に連関し、影響し合い、固有のものが失われずに揺らぎの中で配置される可能性が膨らんできた時、私は、求める“ピアノリサイタルの新しいあり方”に向けて歩み出します。そういうプログラムにこだわることの狙いは、聴き手の皆さんそれぞれが持っている専門知識、経験、歴史観…etc.は様々でも、その“聴くこと”の根本に働きかけ、音楽のみならず多数分野の芸術が交錯しても矛盾なく受け取られるための、抽象度の高いビジョンを用意することにあります。

 即興によらず、完成された作品を演奏するということは、曲が既にそこに「存在」しているかのように感じてしまいがちですが、個々の音楽作品も創造の手がかりのひとつにすぎません。スイスの画家パウル・クレーが言うように、いかなる要素も「多義性の奥に究極の神秘を蔵し」ているということの自覚のもとに、それらと作品との関わり合いを常に音で開きつつ、皆さんと新鮮にそこで感じて考える場でなくてはならないと思っています。聴き手の皆さんにとっても、さまざまな時代の「出来事」である作品の陳列を一夜にして聴くということではなく、そこに集められた集合が、何らかの距離を持つ照合の場であって、既知の枠組、既成の思考の網を取り払い、直接的な実感に結びつくのでなければ、本当の意味で芸術と触れ合うことにはならないと思うからです。

 生の音響を体験できる臨場感あふれるコンサート会場で、「音の起こし」から、既存のものを語るのではない“芸術の想起”そのものを共有し、常に新鮮なものに立ち向かうための工夫を考える場。聴衆の方々ご自身が創造者になって、何か新たなものを形成し持ち帰ることができる場がコンサート会場であって欲しいと願い、こうした自主企画ピアノリサイタルを2013年より開始し、今年3月で7回を数えています。

 特にここ数年取り組んでいますのは、「クレー・リサイタル」です。なんだか奇妙な企画名ですが、パウル・クレーの作品をピアノリサイタルのひとつの思考の指標として、それをどう音楽思考と結びつけながら、聴き手の皆さんと生の音響空間を通じて共有できるかという実験的なリサイタルです。そもそも私がクレーを知るようになったのは、私のリサイタルで常にメインとして取り上げてきたピエール・ブーレーズの著書『クレーの絵と音楽』からでした。 クレーの『造形思考』、すなわち、生成などの“動き”を表すために単純な点、線などの要素・素材にまで立ち返り、体系的、理論的に思考を無限に広げていったそのやり方と、そしてそこから生み出された作品への共感。そのブーレーズの思想とクレーの作品との出会いなしには思い浮かばなかった企画です。

 この一連の「クレー・リサイタル」の《肥沃の国の境界にて~線ポリフォニー⇒…!?》・《ドゥルカマラ島~時間の泡は如何に?d→d~》・《オルフェウスの庭~線・この世界の厚みの中へ~》といった題名と演目を見ると、バッハからメシアン、ブーレーズ、モーツアルト、クセナキス、武満徹、シューマン、近藤譲氏等の日本人の新作委嘱作品などと随分と散らばった選曲で、最初の印象は、「奇妙だ」とも言われたものです。この試みは、ひょっとするとただの奇想天外な出来事に終わってしまうか、絵と題名と選曲の照合という辻褄合わせにも成りかねません。最も難しいのは、リサイタルが構想している全体を、公演チラシのデザインとして、何か音以外の《ビジョン》としてもお伝えできなければならないことです。毎回、このコンセプトの立案から熟成へは、苦難の道程です。何しろ、一晩の1回限りのリサイタルは、説明的な手段では叶わない、最終的には生の音で全てが明らかになるべき場であり、アイデアから最後の音の表現に到るまで、究極のところ、直観でしかないのですから。そこで初めて産まれるものたち、音の河、音響の綾、その反響の反響…etc.に戸惑うことなく、楽しむことができましたら、大成功!ということになりますが、もしそうなれば、それは、クレーのお蔭さまなのです。

 クレーが絵の中に「動」を秩序づけ、現在・過去・未来をひとつの統一の内に呼応させて描きこんだように、印刷楽譜として残された身近な作品にも、「既成事実」にではなく「可能性」や「可動性」に着目した方がどんなに豊かで、真実らしいことでしょう。毎回新たな「音の起こし」に関わる演奏行為のあり方は、クレーや、ブーレーズの創造行為から学びます。それは当然、従来の音楽の「聴き方」をも揺さぶることにもなるのではないか。全ては、その実現のためなのです。                                                 (せがわゆみこ/ピアニスト)


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