御天道様はいよいよ我々を揚げ物にしようと画策中🤔☀️ もう蒸したふにゃふにゃポテトにしかなれないよ~🍟
さてJun.「父の日」翌日にレコーディング、始動し始めたCD企画がようやくマスタリングまで漕ぎ着けました💨
6年前からの親密なチームで、この「てづくり」感にいつも一歩一歩喜びがヒトシオ(;_;)
Paul Klee・プロジェクトは第4弾、6枚目のCDは再び、「境界」について探る旅に。もはや「音楽」そのものに没頭することが益々難しくなっています…(/^^)/
今や戦中にあって「皮肉」が混じるべきか、「純粋な制作論」を語るべきか・・・
テーマは、
『都市の境界 Stadt Ende』
1926年の作品です。
今度こそ、と言うべきか、クレーの制作プロセスをそのまま体現できるCDの方法をじっくり探ってみたくて、ブーレーズソナタ3曲CDから一変、今回は耳についた「名曲」に敢えて切り込んでみました✂️
具象と抽象、協奏曲と組曲、郷土性と無底性、都市と環境、固定と流動…
この度はバッハのクラヴィーア練習曲集第2巻に収められた『イタリア協奏曲』と『フランス風序曲』を柱に、「間」曲は、少し意外なチョイスを。(収録曲は下記)あくまで、クレーの『Stadt Ende~都市の境界~』を通して鳴り響くCDとして、最近ちょっと長いけれど、解説とも違う1つのエッセイを書き上げました✍️
これがジャケットにギリギリ押し込まりますように🍀
バッハのような名曲はそのまま置いてあっても充分多義性を持ちうるけれど、自分自身の中でも今にも既成に固まってしまいそうな、耳についた「名曲」の見え方・聴こえ方に、すこし「擦れ」を与えてみる💨
リヒターにしても、このクレーにしても作品が、一義的に捉えられてしまうことをものすごく拒んでいるので、私も6年目となり、なかなか「視る、feelすること」をクレーから鍛えられてきました😤
クレーは、1つの喩え話、誰にでも親密なストーリーを忍ばせてぐっと私たちを巻き込んでしまう「技」を使うけれど(具象性から退却しない)、時々目の前に見えること、今後予想できることを作品で現すことも・・・
この『Stadt Ende』は、まず空間的にはバウハウスのあるデッサウの街外れのテルテンという場所に計画された60棟もの労働者家族用の均一な(!)集合住宅の建設の様を、「揶揄」した形で描いたとも言われている。
「Ende」ってことばはあまりにも意味深です🤔
しかし、物質性、物質以前、もしくは未来像、見えるままをそのままに、もしくは「見えないものを見えるように」、時空間のずらしと絵画上の技法と相まって、クレー自身も作品のなかで、現実のバウハウスプロジェクトとうまく距離をとっているようにも見える…👀
そう、「バウハウス」の事件より、これをもっとプリミティブな次元でも解釈できる🤔
ここに、私が奏でるバッハと、また現代までの親密に思う作品のかずかずの形式と合わせて見ると、益々複数のレイヤー仕掛けに📊
イタリア様式とフランス様式が、形式上でも「逢着」する様、また湯浅先生の作品の中にあるプリミティブな次元、また『プロジェクション トポロジク』にみるシンメトリー構造の潜在的な「回帰性」も、CD全体に散りばめられた「リトルネッロ」に重ね合わせてみてみると、、それを体感して言語化する作業は、また新しいものがありました💡
一生懸命弾いて、編集したけれど、一生懸命書きました😊
これでようやく、デザイナーの山入端さんにバトンタッチ。打ち合わせを経て、どんなデザインになっていくのか楽しみな道中です🐾
12月のリリースを目指して、またその頃詳細アップします🙋
・・・・・
収録曲
「都市の境界 Stadt Ende」
~輝きと輝きの間の戯れ ⇔ 戯れと戯れの間の輝き~
・J.S.バッハ: 協奏曲 ヘ長調 BWV978 (原曲-A.ヴィヴァルディ:「調和の霊感」op.3-3)
・J.S.バッハ: イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971
・ショパン : マズルカ Op.7-1 変ロ長調
・バルトーク:≪ミクロコスモス≫から第150.151番「6つのブルガリア舞曲」より
・ショパン : マズルカ Op.56-2 ハ長調
・バルトーク:≪ミクロコスモス≫から第152番「6つのブルガリア舞曲」
・ショパン : マズルカ Op.33-4 ロ短調
・湯浅譲二 : プロジェクション・トポロジク
・J.S.バッハ フランス風序曲 ロ短調 BWV831
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