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  • yumiko segawa

9/28(土)瀬川リサイタル「バッハを聴く~多次元的接触の宇宙へ~」@サロン・テッセラ



昨日はラグビーの試合とほぼ同時の16:00に、こちらもキックオフしましたヽ(・∀・)ノ

私にとっての金星があるとすれば、それは、宣言通り、 湯浅譲二先生から伝授された『宇宙的無意識』の境地で最初から最後まで演奏できたかどうかだ。。。(>_<)

...

・・・いやぁまだまだです(*_*)

一発目、大好きなstravinskyのタンゴでコケた!回避する術はそれなりにわきまえたつもりだが、湯浅先生親子はその“心の動揺”をしっかりと聴いてくださった😁咄嗟に1場面ワープ!「イギリス組曲サラバンドから冴えてきましたね」の先生のコメントはそういうことなのです😹

最後のパルティータでは両足が吊ったり、ハプニングは色々ありつつ(^_^;)、温かい会場の皆様の応援のお陰様で、大好きなプログラムを弾きとおすことができました!

とにかく、高度なテクニックを必要とされる難曲揃いの湯浅譲二先生のピアノ作品郡の中でも、なんとか弾きやすい作品としても知られるこの『内触覚的宇宙1』(1957)。 なんてことだ!なんという難しい作品でしょう(*_*)“易しい作品”なんてあり得ない! とてつもない作品です。構造がすごい。玲奈さんがはたと、「こんな作品、書いたんだね」と。これが、湯浅譲二先生の27歳です!!

湯浅譲二先生をはじめ、娘の玲奈さま、そしてマネジメントで奔走してくださった吉見亨さま、温かく見守ってくださいましたサロン・テッセラの皆様さま、CD先行発売でご協力頂いたトーンフォレストレコード寺師寛紘さん、駆けつけてくれた幼なじみ強い味方 吉川真理ちゃん、本当にありがとうございました🙇✨

打ち上げには、湯浅玲奈さんご推薦の三軒茶屋駅・近場の中華『香辣里』へ! vol.1から応援してくださっている慶應の舞踊評論家の石井達朗先生をはじめとする先生方と湯浅先生を囲んでほんのりと、円熟の慶應同窓会の雰囲気があったり、クレー協会の新藤さんやポー研究の猪俣光夫先生、論理学の藁谷敏晴先生、弟子の工藤くんなどと音楽、文学、美術のお話があったりと、幸せな時間を過ごさせていただきました! それにしても面白くて美味しい中華でした。豚の耳たぶまでっ(゜.゜) そして、最後には烏龍茶とゴマアイスの相性を譲二先生と確かめ合いました☆

ついに、私は湯浅譲二先生に、「嫁入り」ならぬ「孫入り」したい!と 。笑われたけれど、現在、おじいちゃんがいない私にとって、これ以上ない、心の中の、夢のおじいちゃんです! 先生、ずっとずっと、長生きしてください!!\(^^)/

さて、今回の勲章・・・?!

また本番前に大きなニキビができました(>_<)しかも3つも!!演奏中に眉間にシワが寄るのは私の悪い癖だ。正にそこに!32にしてこれはニキビとは言わない。下手くそ指数の何物か、結晶ぶつだ!(`へ´*)ノ

2013年、vol.2のショパンリサイタルでは左の目の上に。(正に目の上のたんこぶ!)2015年、vol.4ゴルトベルクリサイタルでは右の口の横に。これはさすがに大きくて固かったので、皮膚癌と思い、さよならリサイタルと心に決めて臨んだもの。しかし、この子はだいたいリサイタルの次の日には萎む、悪い子なのです👻

そして昨日、終わったあとにこのニキビたちをお医者様の玲奈さんに披露しましたら、絶対に効く強力なお薬を教えていただきました!( 〃▽〃)

きっと顔には痕がしっかり残るけど、これで治ると思うと、とりあえず、とってもハッピーです!

ちゃんちゃんヽ(・∀・)ノ

                     ・・・・・・・・・・・・・・・・

瀬川裕美子ピアノリサイタル

バッハを聴く~多次元的接触の宇宙へ~

2019年9月28日(土)15時30分開場 16時開演 

サロン・テッセラ   

主催:Sound Marriage実行委員会

------Program-----

・ストラヴィンスキー:タンゴ

・J.S.バッハ: イギリス組曲 第4番 ヘ長調 BWV809 

・バルトーク:戸外にて Sz.81

  ***

・武満徹:雨の樹 素描Ⅱ—オリヴィエ・メシアンの追憶に—

・メシアン:「4つのリズムエチュード」より 『火の島Ⅰ』

・湯浅譲二:内触覚的宇宙

・J.S.バッハ:パルティータ 第6番 ホ短調 BWV830

* * * * * *

本プログラムに添えて                      瀬川裕美子 (当日配布プログラムより)

ストラヴィンスキーの創意が最も爆発した衝撃の事件,バレー音楽作品『春の祭典 』の作曲が1913年。

その後、当時流行していたジャズのリズムを取り入れた『ピアノ・ラグ ミュージック(1919)』や『ラグタイム(1918)』などの作曲を経て、彼の新古典主義時代といわれる『ピアノソナタ(1924)』,そして1940年には、この大衆音楽的な『タンゴ』作曲と、カメレオンの如く変化させていく。

フランスの作曲家ブーレーズは皮肉にもこう呟いた。

「貧弱で均一なシンコペーションやそれと不可分な4分の4拍子で)たぶらかしはしなかったか?」

しかし、あのロシアの民謡や複雑なリズム構造を用いた『春の祭典 』の「太い筆致」はこの『タンゴ』でも健在だ。特に冒頭は「ほとんど変化しない旋律細胞のがっしりした質量感」、また3和音に「複雑さを付加」することによって、音響的なストラヴィンスキー独自の語彙が聴こえてくる。そこに罪深いほどの奔放な歌を乗せてしまう。バスといえば驚くほどに、レの保続だ。どこまでも、無骨な〝レ〟の行進の“ストラヴィンスキーの『タンゴ』”は、地を踏み鳴らす。続くバッハ『イギリス組曲』の独立した絡み合う線の横の流れは、縦の和音の響きに吸収されるように、ダイナミックに弾む。大地との接触によって、肉体と外の世界とを結びつける。ダンスは、人間の内部と外部世界を結びつける、原始的な行為なのかもしれない。

今や、我々は「見る」、「聴く」という感覚だけで対象を感じ取るのではなく、「体感」といえるもの、「触覚」というまた別次元での情報をキャッチする。それは表面に触るということを超えて、もう少しそこに無意識に、暗い内部で人間のあらゆる感覚が一気に統合される領域と言ったらいいだろうか。それを湯浅譲二先生は、「無意識的宇宙」とぽつりとおっしゃった。宇宙=大自然とも共感し得るスイッチ。つい忘れかけてしまうその人間の原始的な潜在的な共感力に、改めて、何度でも目覚めたい。

メシアンの創り出す秩序も巨大なカオスの分母からなる。この『火の島Ⅰ』では、パプアニューギニアの土着のリズム、鳥の歌、インドのカースト制に基づいた対位法、ギリシャ・ラテンの強弱格の韻律、グレゴリオ聖歌の一部を参照したシンメトリックなカノンなど、各種各様の重ね合わせが変奏の形で繰り広げられる。

まとめて、宇宙の神秘。   

バッハを聴く〜多次元的接触の宇宙へ〜

バルトークは、古いハンガリーの農民音楽、民族音楽の膨大な採集家であり研究家であった。

『戸外にて』では題名が示す通り、実地へ赴き、農民と日常を共にするという生の体験をした者にしか描けない素朴なハンガリーの田舎の風景を伝える。彼らの土着の足踏み、向こうで鳴くスズガエルの声、遠くに聞こえる舟歌か、夕べの歌か、バグパイプと打楽器の賑やかなお祭り騒ぎ、そして死者との対話、静けさ…。

第4曲の「夜の音楽」では、不協和なトリルを伴った持続音を終始聴かせながら、様々な村のイベントが遠近感をもって、全て戸外のノイズに含められていく。

この組曲の第3曲目の「ミュゼット」や2曲目の「舟歌」、終曲の「狩」でも際立って聴こえるバッソ・オスティナート(一定の音型を何度も反復する技法)は野性的だ。オスティナート風の、唯一つの和音で長い歌のフレーズをずっと裏打ちしても満足の和声づけになる、という簡潔で明快なハンガリーの民族音楽の特性は、バルトークのフィルターに掛けられ、益々生命力溢れ、豊かに表現されている。

もちろん、バルトークより前に「ミュゼット」を書いたのはバッハだが、そんな土着的なバッソ・オスティナートをこのバッハの組曲の至る所に見つけるのも新鮮だ。バッハの今回の『イギリス組曲第4番』にも『パルティータ第6番』にも、短いフレーズながらにバッソ・オスティナートは度々登場する。

さて、バルトークで響き渡った持続音は、形を変えて魅惑的に音響空間を包み込む、外界へも内面へも遠心的に広がりを持った低音のドローンへと引き継がれる。

武満徹の『雨の樹素描 II〜オリヴィエ・メシアンの追悼に〜』の追悼の鐘、レクイエムの最低音〝レ〟の音が、10回鳴り響く。その〝レ〟音を背景に、高い呼び声と2連、3連のパルスの小波が重なり合う冒頭のテーマや、それが変形され鋭い断片化された音型、また模倣される天上界での喜びの歌などが、2つのテンポの行き来によって次々に繰り広げられていく。立ち昇る音型と、最低音の深い〝レ〟は、天と地が最終的に宇宙のただ中に、大きな円を遠心的に描いていたことを知るかのようであり、また、それが同時に人間の内面に、求心的に結び合わされる実感を伴うかのように…。

そして湯浅譲二先生の『内触覚的宇宙(1957)』。「この曲は、宇宙と人間の交わりの中にある、もっとも原初的な、そしてヴァイタリスティックな宗教的感動を表現しようとしたものです」(『湯浅譲二の音楽』ルチアーノ・ガリアーノ著 小野光子訳 /アルテスパブリッシング2019~)

同題名の作品は全部で5作あり、本日は1957年に書かれたその第1作目を演奏する。I とII(1986)はピアノ、III(1990)は二十弦筝と尺八、IV(1997)はチェロとピアノ、V(2002/3)はオーケストラのためにそれぞれ書かれている。ここでも深いドローンの響きがこの世界を支えているが、ここでは、高音の反復音や、中声部で特徴的な増4度の響きで、至る所にドローンが響きわたる。その上に鮮やかなリズムが響き渡る。全体で5つの部分から成る、メシアンの〝移調の限られた旋法〟が取り入られて書かれた各々の音型、音響群は、絵巻物のように継起していく。「巨大なリゾネーター(共鳴体)を通して生じてくるソノリティを最大限に生か」して書かれたこのピアノは、正に宇宙を映し出す。私がピアノの鍵盤に触る、その触覚は物理的な表面的な触覚の感覚を越える。このプログラムで様々な体験を通してここに来た時、どう感じるだろう?

そして終曲、バッハの精神的宇宙へ。

このパルティータ第6番は、舞曲が集められたクラヴィーアのために書かれた組曲としては、バッハ最後の作品であり、死にかかわる音楽の精髄を描いた『マタイ受難曲BWV244』と同じホ短調で書かれている。

6曲目の「テンポ・ディ・ガヴォタ(ガヴォットのテンポで)」の題名が何か示唆するように、国境を越え、舞曲そのもののしきたりを越えたところにある、“究極のもの”を目指しているのではないだろうか。大きな宇宙のただ中で人の死や生は小さな出来事のようにも感じるが、生まれる前、死んだ後の見えない世界を感じる営みこそ、バッハの生涯にわたる、キリストを通した「受難」への眼差し・「死」への考察であるように思える。今私たちが生きている状態が中間領域であるという自覚を音楽の中でいつでも感じさせてくれる。マタイ受難曲の冒頭の合唱曲では、受難と婚礼というキーワードが歌詞の中で両義的に浮かび上がる。バッハの究極の甘い「死」への憧れなのか。悲痛は、新たな歩みだしの軽快なステップと共にある…。

冒頭「トッカータ」の2音下降の“苦しみ”を感じさせる「ため息モチーフ」は、その後のフーガのテーマにも現れ長い歩みが始まる。そして多くの“痛み”を伴う様々な非和声音の多用により、内面の悲しみのドラマを雄弁に展開させる、この組曲中白眉とも言える「サラバンド」を経て、テーマの内部に「十字架音型」が埋め込まれた難解な世界へと引きずり込むかのような終曲「ジーグ」へ引き継がれる。ここでは、むち打ちを表す付点リズムと共に、タイで結ばれた頬をつたう涙の慈愛の旋律が対位旋律として重ね合わされる。「むち打ち」は、もはや内面化される。また生まれ変わりを予言するかのように、明るいピカルディー終止でこの組曲は幕を閉じる。種々の修辞法や十字架の象徴、数の象徴が豊かに盛り込まれた「マタイ受難曲」を彷彿とさせるか…修辞学的音楽「フィグーラ」の解釈のみから考慮してもバッハの作品は、世界の解析者たちの探究心を汲みつくすことはない。このバッハ作品における修辞学的な音楽の一致は、バッハの「宇宙的無意識」という名の意識なのか。偶然は、必然…。


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