3/15 「B→C」解体図譜 ★その5★
@金沢
~thinking about 湯浅譲二先生、ダイセツetc...
まん防、ヤーョ、満期予報~🕺
オミクロン max満ち満ち、どこまでも…👾
明け方コソコソ、夜分にコソコソ帰ってくる。こんな日帰り旅を ちょこちょこと・・・
あぁ旅したいですね!o(^-^o)(o^-^)o
この金沢の旅も2021昨秋🍁のお話。
写真は、谷口吉生設計の鈴木大拙館、西田幾多郎記念哲学館、そして、兼六園に金沢城。
今は、あの庭の空気感がいつでも、私の目の前にバーチャルリアリティー✨
たぶん、今日はそんな思い出と共に心構え編。 いよいよ「湯浅譲二」に迫ってみます(^^)/
今回演奏させて頂く1959年作の『projection topologic』とは、構造に直接の接点がある訳ではないけれど、、、思考と体験のためには大きな基盤の地。
金沢へ✨
ここは、考えるのにはとても良い場所🏞️
湯浅先生が読んだ思想のひとつに、ダイセツがあって、鈴木大拙、西田幾多郎の故郷が、金沢。
私なりのダイセツ解き----から、迂回しながらも、今日は
湯浅先生の音楽、文化の中に“ダイセツ”が浸透してくるって、それはどういうことなのか考えてみる💭
・・・
さて、湯浅先生の究極のあの「自己肯定感」って、どこから来るのかしら?
とにかく、仕方もなくかっこいいもの…!!(/^^)/
(※仕方のない魅力…この言い回しは湯浅先生研究のルチアーノ・ガリアーノさんの名台詞 for yumiko)
「自信」を持つには努力が必要🤔
だけど、あくせく働く「自足感」とは違う、自己が限りなく虚しい、そこに「絶対無」が見えてくる・・・。
「自信」があるとすれば、信じる根拠の「自」をちょっとよく考えてみる。
「自」、とは言うものの「自我」と「自己」にはえらい違いがあるみたい。
「自我」はいつまでも「私」から離れられないけれど、「自己」といえば、「個」の人間を越えた、人間全体の存在を問える場所に。エゴが見当たらない「自我」に戻るには、一度この「自己」を迂回する必要があるよう✨
そう、湯浅先生の「自信」には、どうも「エゴ」の匂いがそぐわないから。
明日何しようかな?項目を、目の前から1つずつ消去していく・・・
そこに、「何のために」生きる?
が残って、その「what for?」から、目的を問うforもなくしてみる。
未来への開け、は、逆向きに「始源」にも。
what??
↓
存在とは?
「人間とは何か?」
おぉ、ようやく湯浅先生の有名なクエスチョンにたどり着けました!\(^^)/
これも随分なショートカット…💨
それにしても、「人間とは何か?」なのだから、東も西もない、根源ってどこだろう、ということになる。
だからこそ、ダイセツの「禅」は、湯浅先生の創作世界の基盤に。あらゆるシステムは、その上に・・・
だけれど、ひとまず、湯浅譲二に立ち向かうには、先生と同じクエスチョンに立って、自分をリセットする必要がありました。
ふとそこで、日本人に無宗教の人間が多いことに驚いて言ったという、とあるユダヤ人ラビの言葉を思い出す。
---ではいったい、彼らはこの世界をどう捉えて、自分たちの存在をどう認識し得るんだ?---
日本人として、キリスト教とはまったく関係のない方法で、私たちにも存在を問う方法はある(?)。でも、見えているこの世だけでの解決は難しそうです🤔
----「禅」は、宗教を越えた、ただただ、純粋体験を問うもの。
もしバッハのカンタータでの、神の讃美の方法が、「禅」とまったくもって相容れないのでは、根本的な人類の「自己理解」の枠組みはどこに行ってしまうのだろう?
湯浅先生が時折メシアンに、それからバッハへの共感が生まれるには、何らかの「個」が普遍的に広がる、何らかのきっかけになる視点があるからに違いない💡
この思考の延長上に、湯浅先生の信じる根拠は、「湯浅譲二」の“自我”ではなくて、未来に投げ掛ける ~projection~がある。これは、どうやらちっぽけな「自分探し」とは次元の違うもの😅
そう、人類全体、未来への挑戦だ!
脳は、放っておけば習慣性や保守性が本性。
だとすれば、シンプルな湯浅クエスチョンはとてつもなく辛くて、人によっては信じがたい、耐えられないほどの過酷なものになるかもしれない。
人間の知覚を問う、認識論よりも、もっと根元的な存在を問う。「ラディカル」って言葉は、前衛であると同時に、根源的という意味も持つことも、近藤譲先生から知った。
---音楽というのは、少なくとも音響エネルギーの運動が時間的に推移してできるもの---by Yuasa
こんなシンプルな体験のために、私たちには、ちょっと日常におけるふとした「フィクションの時間」または「魂の時間」について考えてみる必要がありそう。
「音楽におけるトポロジーは何だと思いますか?」
って湯浅先生は真剣に問うてくる。
projection topologic
プロジェクション・トポロジク。
この問いに、わたしたちが、真剣に言葉で答えることは、極めて難しい。。
いや、先生の質問の仕方があまりに直球すぎたのだ。湯浅先生はあまりにも、言葉も音楽も思想も純度が高い。
それか、ふだん、こちらがあまりにも余計なものをたくさんくっつけてエネルギーの源が見えなくなっているだけかもしれない😹
----ブラック・ホールの抜け穴みたいにどこかで宇宙的なものとつながっているというものが、芸術としては一番おもしろいんじゃないかとぼくは思うんです----yuasa 『音楽のコスモロジーへ』
そういえば、カフカなんかは、日常の中に驚くようなブラックホールを用意してくれる。
カフカのとある劇場では、
-----<戸口のベルにしては、あまりにも音が大きすぎる> その音は、<街を越えて天にまで>ひびいていく。----
カフカの人物たちの身ぶりは、日常の環境からはあまりにも逸脱したもの😹
あと、動物が主人公なことも多い🐁🐹🐇🐦🐾
先生の描く音、音響、時間の体験劇は、脳内と心のありようを一新させてくれるもの。
----・・・システミックな作法をもたずに、超聴覚的な音響に立ち向かう彼(Joji Yuasa)作曲という作業はますます大きな苦行になってゆくことだろう----
これは、近藤譲先生のご著作『音楽の種子』朝日出版社の中の「湯浅譲二の音楽」の最後の一文ですが、
今ふと思うのは、湯浅先生の作曲方法の“システミックな作法”というものは、もう、すでに、そこにあったように思える、ということ。。✨
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