3/15「B→C」解体図譜★その9★
★バッハとバルトークの締め方・キメ方🕺✨ ~ミクロコスモス考--メタモルフォースか脱線か!?… ~
(チケット予定枚数は終了しましたが、★解体図譜は軟着陸に向けてもうちょっと…(* ̄∇ ̄)ノ)
・・・
「まとめ」に入ると理路整然の罠に陥りそうになる…(><)
箇条書きに収められるとさっぱりとして満足げに…🤗❔
「統合」は怖いな…
アタマが固いって恐いこと。。いつだって伸びやかさはひつよう✨
“気持ちの良い収斂“が、“醜い収斂“になってないか、いちいち石橋を叩いて確認する必要がある…
そう、この“気持ちの良さ“は「未聴感」とはなんの関わりもないもの。
「既聴感」は常に居心地が良いものだから…😹
「未聴感」への冒険は、本性でありながら、「ちょっと力が必要!🏋️」
ってこれは、湯浅先生を語るガリアーノさんの名言だ。
さぁ、だからって「統合失調症」礼讚!!って訳にもいかない…
アナーキー🕳️ではどうにもならない!
でも、この罠に嵌まらずに豊かに、人生終盤期に「まとめ」上げている尊敬する人物に出会えることは素晴らしい体験✨
彼らの必勝法は、
----数を知ってる、
こと。
いかに膨大な蠢きの量🕷️を把握してるか…
彼らの背後にある「数」は恐るべし(><)
・バルトークの旅、ハンガリー及び近隣諸国の民謡数千、千の蒐集。
・バッハの修練、多方面、網羅力。
3×(B→P)In (B→B)
このたびの「B→C」の本題へ。
後半は、バルトークの『ミクロコスモス』最後のブルガリア舞曲6曲に、
湯浅譲二先生のお能とセリーの不可思議な統合、3つのプロジェクションによる『ミクロコスモス』ともいえる「プロジェクション・トポロジク」を挟んで、
バッハの『ミクロコスモス』へ。
----えっ❓バッハにも湯浅先生にも「ミクロコスモス」があったとは初耳です!👂✨
そう!後半はミクロコスモスシリーズ\(^^)/3つのミクロコスモスの世界!
あっ、でも前半もある意味そうかもしれない…💡
・バッハがコラール・カンタータで統一を意識し出したのはバッハ人生終盤に差し掛かるライプツィヒ時代にはいって
からの教会暦第2年度分のカンタータはじめのカンタータBWV20。
・シューマンの白鳥の歌、静かな言い知れぬ蠢きの密かな結び。
・ブーレーズの未完のピアノ曲による大ミサ、その中のコンステラシオン。正に大宇宙の中の、ポワンとブロックによるまとまりのミクロコスモス。
・そして人生終盤にしては速すぎるが😅北爪裕道氏の新作の予告…ピアノの内部で繰り広げられる、エレクトロニクスとピアノ音との次々新たに“音”が生まれ変わるような、連動、交差による音響的小宇宙💫
…「ミクロコスモス」って一体何なのか?🤔
この意識の持っていき方を考えてる。
さて後半に話を戻して…
最後の J.S.バッハ『フランス風序曲 BWV831』。
私にとっては、もう、バッハの「ミクロコスモス」にしか見えなくなってきました😊✨
バルトークの「ミクロコスモス」もバッハの「フランス風序曲=ミクロコスモス」も、人生終盤にまとめられた曲集。
1926年、ピアノソナタなどの傑作が生まれた<ピアノ音楽の年>からはまた10年後の亡命前の1932~39年の年に主に教育の目的で書かれたバルトークの<統合>を見る、6巻からなる「ミクロコスモス」。
ハンガリーの数千もの民謡を蒐集し、さらに近隣諸国のルーマニア、スロヴァキア、ブルガリアの民謡も合わせて数千もの蒐集分類した偉業から、贅沢すぎるフィルターを通してこぼれ落ちた「6つ」の…
ブルガリア舞曲!!
一方バッハは、各地での転職ののち、最後のライプツィヒで自身の長年の目標であった「整備された教会音楽」の実現の最中、「クラヴィーア練習曲集」4巻の自費出版プロジェクトを開始。
フランス様式、イタリア様式を手の内に、1935年に出品された「クラヴィーア練習曲集 第2部」の中にこのフランス風序曲が収められている。
バッハの『ミクロコスモス』が次々生まれてくるライプツィヒ時代🎶
きっとこれはバッハが言うところの「整備された~」こそ、これまでの自身がかかわり産み出してきた“形態の蠢き”をどうしても「統合」したい表れとも。
今、私の指のなかでもそれが起こってる。
この2つのミクロコスモスの内容がどうであるかは、敢えて語りません。もう、演奏を聴いていただきたい…🎵
ただここでは、「統合」の正体、ミクロコスモスの正体をあともう少しオープンにしてから終わりにしようと思います🙋
とある尊敬する先生が、ドイツ語のEinheit を日本では「統一」と条件反射的に訳出することについて、警鐘を鳴らしていらした。。これは「変化してやまない形態」といった意味だから意図的に「まとまり」と訳語に当てていらっしゃるという話、
私にとってはとても教訓になってる✨
これを受けて、ゲーテの『形態学』を念頭に置いたメタモルフォーゼ感は、いつでも離さずに…「脱線」という考え方にも触れてみる。
少し出足は遅れてしまったが、2月号の『ユリイカ』はなんとダンサーの
田中泯特集でしたね!
ダンサーがユリイカのテーマに!?
いや、そんな驚きはもう遅いかもしれない。
「言語体」人間がひしめくplan-Bにはじめて出入りしてから、オドリとコトバにも境目がない感覚になっていった。
このユリイカでも、田中泯さんに関わる皆さんが書き綴ったコトバが、そのまま思考オドリに、返されていくようです。
さぁ、ここから色々刺激を受けながら、また我々読者も何かしら間接的に議論に参画したい気持ちにもなるに違いないけれど、その中で今はこの「ミクロコスモス」、「統合=変化してやまない形態」に関連しそうなことを引っ張ってみる。
↓
いま全国で上映中の田中泯さんの
『名付けないようのない踊り』の映画監督:犬童一心さんのエッセイの中で、「泯さんの踊りはメタモルフォーゼか、脱線か」という話が出ている---
---「犬童さんはメタモルフォースと言うけれど、僕としては脱線なんだよ」
踊りという乗り物に乗っている泯さんが、そのまま次のレールに乗るんだけれどまた脱線するというのを続けていく…
それが、泯さんのオドリの方法。
ふむふむ🤔
「脱線」というからには、元のレールからの距離も意識されるように思われる。どれくらい離れたか、もしくはどれくらい近くに戻ったのか、、
「脱」があるなら、「脱ぐ」前の「一体性」、蠢きが止まない状態にある統合的な「場所」の想定があるはずだ…私にとってはそこが重要で気になる。
もしくは、「脱線」していく全ての過程を包み込む目線もどこかに存在するのだろうか。(するはずだ!)
だとしたら、それが、 泯さんの「場踊り」の「場」であり宇宙なのかなと思ったりする。
(泯さんの場踊りは、その地と大気、環境との抗争、恋愛…なしにはあり得ない奇跡的な出会い✨)
「踊りという乗り物」そのもの事態はあくまで動かず、ではなく、その乗り物自体の蠢きはないのか。
それは、メタモルフォースしていることにならないか…?
バッハにも、バルトークにも、大きな「場」があって、ここでは確かに彼らには信頼すべき「オドリ」の「乗り物」がある。のびやかに、自身の経験に組み込み、組み直していく「乗り物」のレールから、静かに脱線しながらも、「乗り物」もいつしか常に生まれ変わってもいる…。
フランス風序曲の最後を飾る舞曲、「エコー」。
「エコー」という乗り物は、かつてどこにも存在しない、目にも見えないもの。
エコーとは…
メタモルフォースを繰り返してきた「場」の中で生まれた、またバッハの脱線劇のひとつとして。
まさにここでバッハが仕掛けたオドリは…
(相手を問うべきでもなく)
自由闊達な「対話」でした✨
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