3/15「B→C」解体図譜 ★その8★
再解釈・変換の諸問題②
コラール・カンタータBWV20 (pf.+ elec.編曲)
「雪のあとの凍った路面には、くれぐれも滑らないように気をつけてください…」と何度言っても、i教授は帰ってきません。。(;_;)
さて、エレクトロニクス ⇔ 器楽アンサンブル
の再解釈の方法、内容は如何に?🤔
解体図譜★その3★では、
「エレクトロニクス⇒器楽アンサンブル」
の再解釈のことについて触れたけれど、その逆の作業の編曲があるとしたら…?
imagine…🌊
声楽・器楽アンサンブル ⇒ ピアノ+エレクトロニクス(エクステンデッド・ピアノ)
『海よりもまだ深く』…そんな次元がぽかんと見えてくるのは私だけ?
ドイツのエレクトロニクスの先駆者マーガーさんの語ったところでは、「私の前にある音の大海」状態🌊
(←音楽にとっての「コード」でいえば、この「大海」のもう一方の極にあるのは、型にはまりすぎた「全音階的12音」しかない、ということ…それは、今回で言えばピアノパート。)
バッハが、聖句による歌詞をバッハ一流の経験と自覚において解釈された譜面のテキストを、今、再びほどいて、編み直す---再解釈。
この度は、上記のことを、ピアノの響板そのものをスピーカーとして電子音響を共に響かせるエクステンデッド・ピアノによる編曲として、作曲家の北爪裕道氏に大いに期待をして託している訳ですが、
このカンタータをピアノリサイタルの中に組み込むにあたって、編成は色々考えたものの、前半最後で新作として披露していただく「エクステンデッド・ピアノ」の潜在力を、ここでもまた違うあり方として実現していただくことに決めた…のは、2年前。
先日、ようやくその実現に向け、録音した素材たちが電子音響として翻訳されつつ、ピアノとともに、少しずつ、鳴り響き始めています✨
仮説と検証を繰り返しつつ…
そこでもう少し、この作業の根本的な問題に踏み込んでみたい🤔
(音響的なアイデアの具体性は、そのあとにやって来る。)
➡️
バッハのカンタータをエクステンデッド・ピアノへの編曲にあたっては、
音楽か、科学か、もちろんそんな二元論的なアプローチでもなく、ぜひ「人間的環境」という第三の側面への方向の広がりに向けて漕ぎ出でたいという企みがありました。
そうでなくては、バッハにたどり着けない🤔恐らく今、音楽学の分野でも社会学的アプローチなどの広い地平が含められるように…。
しかしいみじくも、バッハの譜面から、何か意味論からの音響的な延長コードを取り出そうとすればするほど、この音響の中にすでに豊かに体現されていることも痛感する。
バッハの本物のポリフォニー。
それはバッハ聖句の理解。そしてその意味の越境、音楽での実現の仕方。
でも、そこで止まっていてはまだこの編曲作業の実現はできない。
バッハの前では、シニフィアン、シニフィエの「固定的な」原因と結果論も弱まる。バロック時代のフィグーラも、バッハに関しては点対点ではなく、大きなコンテキストとして、言葉のオリジンも参照しての広くアプローチなくしては、味わえないもの。
今回の『O Ewigkeit du Donnerwort おお永遠よ、雷の声よ』には同名のカンタータがもう1曲存在します🙋
このコラールを用いて、この聖句の内容をバッハはBWV20だけでなく、BWV60でも用いて、解釈の幅を見せてくれます✨
…形なきもの・テキストの蠢きにかかわる作業。。。それは「翻訳」。
正直、このヨハン・リスト作のコラールの歌詞の内容は実に恐ろしいもの…(ノдヽ)
ヨハネの黙示録には克明に神の裁きの内容が容赦なく真実として語られていますが、「永遠の火の海」に投げ込まれる様を想像してみて…。
でも、この「永遠」はひっくり返せば、パラダイス。行き着きたい憧れの天でもあって。だからコラールの音型は希望に向かう上行形。聴いていてそれがすぐにわかる。しかもフランス風序曲の符点リズムに乗って。
バッハにとって「死」は甘いもの。
歌詞にある「死への恐怖」を表現する時のバッハには、いつだって目が離せない。深い感動を覚えるもの。
↓
自ずと「恐れ」と「希望」
の二重性が滲み出る内容に。
BWV60では、
それがなんとAlt.とTen.のデュエットで、あたかもオペラやオラトリオのような対話形式で表現される。
---「永遠の死への恐怖」と、「来世への希望」のデュエットとして💗
「永遠 Ewigkeit」は、神様の次元として長い音符でコラール4声体のうち、sop.のラインで主に象徴される。(BWV20)
また、それはコンティヌオのドローンとして。(BWV60)
「雷の声 Donnerwort」は、弦の連打で。(BWV60)
フランス風序曲の符点リズムで(BWV20)
事例はいくらでもつきない…。
興味深いバッハの驚異的な選択の数々✨
この編曲では、そういったことを背景に「Ewigkeit」や「Donnerwort」の発話の言葉が次々飛び出すかもしれない😄
さて、またエレクトロニクスのこと。
この間から、Elec.知識・経験に乏しい私自身も参照点が欲しくてパラパラと読んでいる、ミュージック・コンクレートの創始者と言われる作曲家ピエール・シェフェールの論文『音楽・言語・情報理論 Musique, linguistique, informatique:』から感じたことも合わせて。
この論文は、1971年とずいぶん古いものであっても、この熱意には改めて新鮮さを感じるし、ひしひしと、今私も立ち会う目の前の現状を明確に説明してくれるもののようにも、感じる(;_;)
いい言葉には、ホコリはかぶらないものなのかな。
もはや、エンジニアの枠に収まった言語は、「本当の」実践においては効力を感じないのだから…
湯浅マジックの根源論で、バッハの聖句理解に電子音響と共にアプローチできないかなぁと✨
音符を読み取り、それに対応する音を聴くだけではなくて、その向こう側にあるものに耳を澄ませて・・・🎶
---「音楽的使命」を持ち得るすべての音のオブジェを見いだす努力をしよう!✨
って、シェフェールは力強く訴える!!
私はこの言葉に感動したのです💗
シンプルだけど、忍耐強くて、一筋縄ではいかない作業🏋️
そう!
長々と何が言いたかったかと言うと、すでに雄弁な複合体と、誰もが「これ!」とわかる音オブジェから、基本要素の微粒子へ、、
「逆の道のり」🏃♀️💨
を辿るのです!
いい意味でバッハ『O Ewigkeit du Donnerwort BWV20』の解体からの組み直し。
バッハが同じ素材で(ここでは同じコラール)で、何度も作品を編み出したように、自分の信仰を編み直す。。
バッハの多方面の膨大な仕事の仕方が叶った、あの場所✨
あの豊かな創作の源泉にたどり着くと、、
きっとシェフェールたちだって潜在的に目指していたであろう、
人類のユートピア✨
「純粋言語」
の場所にたどり着くのではないかな。
「バベルの塔」が崩壊する前には、翻訳もなかった人類共通の言語があったであろう、遥かなる記憶。。---純粋言語。
神の逆鱗に触れて崩壊したのち、翻訳なしには、対話ができない状況に陥った人々。。
それから、ずっと私たちは「翻訳」の渦の中でもがきつつ、生きてる。
私たちが言葉を操作してるのではなくて、言葉に操られてる…!?
言葉(オリジン)ってなに…?
バッハもその実現に向けて…
今日も長かったかもしれないけれど😹
ひっくるめて人類最大の「翻訳」の問題にずっとかかわっていました。
バッハがかかわる神さまの言葉は、「バベルの塔」の創世記も含む、旧約聖書の成分も存分に含まれたもの。
カンタータにかかわることは、クリスチャンでなくとも我々の存在を問うものであることは、間違いなさそうです✨
問題は、18世紀のライプツィヒの時代と人々の心の環境で聴かれるカンタータと、2022年に東京のオペラシティで聴かれるカンタータでは、越えなければいけない壁がありすぎるのと同時に、何も変わっていない根っこの部分を探そうということ。
---しかし最も本能的な音楽創造というのは、おそらく常に、その解明の試みに先んじ、かつそれを乗り越えてしまう…by P.Schaeffer
ということ✨
楽しみな「マジック」とは、まさにこのこと(/▽\)♪
あと、最後にもう1つお伝えし忘れていること、ありけり💨
このコラール・カンタータを選んだのは、次に繋がるのがSchumannの白鳥の歌、『天使の主題による変奏曲WoO24』だから。
あのEs Durの順次下降のテーマは、シューマンの頭の中で鳴り響いたと言われる自身のViolin Concerto 2mov.のメロディーとも言われているけれど、この旋律への4声体の和声付けは明らかにコラールを思わせるもの。
そのとき、ベッドでバッハのあるコラールの和声づけをしていたという逸話は美しいお話。バッハの白鳥の歌もオルガン・コラールだったことも…
そしてこの順次下降は、バッハもヨハネ受難曲の究極の「成就」の場面-Es ist vollbracht- (Alt aria )で用いた象徴モチーフの冒頭3音でもある。
それを思うと、この上昇するバッハのコラール旋律との映し鏡は何でしょう。
って、まるで「甘い死」への前奏曲のように始まりますね、このリサイタル😹
どなたかの、地上に置き忘れた遺言状執行コンサートとでも。。。🍀
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