3/15「B→C」解体図譜 ★その6★
~ Boulez と Stravinsky の
譜面上の「 ’ コンマ」、
もしくは、Schumannの 「Innere Stimme」のこと~
たまには、譜面のことも(^^)/
といっても、今日も解説文には書かれない余分なお話。
---ところで、譜面上の「コンマ」と対話したことありますか?😹
何しろ、「B→C」では、信頼のおける素晴らしい音楽学の書き手の方が当日プログラムノートを担当してくださる。だから私、この度は「解体図譜」と称して、いつになく自由気ままに、結構マジで書き綴っている🙂
----だんだん言葉の上では、指の動きよりは、又は現実よりは、もっと「遠く」を語らずにはいられなくなってくる…
今回だって音楽の内容ズバリでもなく、横路に反れたこと。 おまけに、自分が世の中の“余分な”存在である自覚だって、ちゃんとしているつもりです!😊
だけど、責任を持って書いてもいるんです!
というのも、今日取り扱う「コンマ」は、なかなか手強い存在。私が嘘でも発すれば、即刻、すてきな金縛り👓💨
さて「コンマ」は小さな扉で、あちら側に抜け出る扉。
----あちらから私たちをこ招くのはだぁれ?←
もし、今日これをちゃんと言葉で言い表し尽くせたら、私、リサイタルなんてしなくても良いかもしれない…🤗✨
今回演奏するのは、
Boulezでは、
・Sonate No.3 ~Constellation
Schumannでは、
・天使の主題による変奏曲 WoO 24
一応確認。
そして、肝心なコンマ。これは、フィクションではありません。譜面上のゴミでもありません!
よく見てください。。
譜面2は、昨年末に演奏したストラヴィンスキー :2台のピアノソロのためのコンチェルトより第2楽章最後のページ。このコンマの山よ⛰️
ここまでくれば、ただの文脈上の「お印」以上のものになってくる。
本当に息つぎ?小刻みなブレス?
そしてお次はこの譜面1のブーレーズのコンステラシオンのポワン。(点)
ここには、コンマもブレスもある。あとたくさんの小さな休符たちの存在もポワンたらしめている。
---「天使が通った! Un ange passe」👼
このブーレーズ3番ソナタは4回目になるのかな。本当によく見てきた譜面だけれど、これは本当に真っ向勝負すれば、瞬間必殺の「腹話術」だ!
誰との対話?
時間との対話?
もちろん、遠近感はいつだって問題。目の前の平板に並んだピアノの鍵盤から、私たちは、「すぐここ」から、どこまでも「光の彼方」へも飛躍したい夢をもって臨む。
でもそれは、空間の話。
時間の奥行きを考えると……🤔
そこにクロノスとカイロスが立ち現れる。
無意識だったかもしれない、時間の二重性なしには音楽には立ち向かえないことが、わかってきた。
文学にも、生活のなかにも…。
全身全霊で、「もう1つの来るべき時間」をつくる人間がいれば、それに、もう弾き手も聴き手も気づかないといけない。
それを嗅ぎとって、まさにそのために、「はじめと終わりのある」作品づくりを二次的なこととして、その「時間構造づくり」に奔走した人たちのことを考えてみる。
さて、私は、「コンマ」を演奏する。
---無音の力を音響化する🎵
コンマをそこに書き込む理由は・・・そこに「第三の場所」をつくること。
要するに、注意喚起⚠️
ドゥルーズ曰く、
「形式構造を露出させる身ぶりであるかのように」
「ある1つの構成要素グループを分離する被膜であるように提示する」
ちょっと包み紙でそっと「固定物」を包んであげるだけで、そのものへの感受性を覚醒状態に保つことができる💡
「その孵化🐣の神秘を隠すための音のカーテンとして張られた」by プルースト
さすがに、この「包み」の意識の表現の仕方がプルーストは美しい…。
音のカーテン、だって✨
湯浅先生は、『projection topologic』の中で「区切られることによって生じる時間」として実践されている。
これは、能楽の中での1つ1つのmomentが1つの世界をつくっていくということが、「短いセリー」の連続を紡いでいくことで表現されていく、そんな湯浅先生の東と西の合わせた編み方🌎
(そう!1959年この頃、驚くほど湯浅先生はセリーを取り入れていらっしゃる。ふとするときに、ブーレーズのソナタのある場所と呼応するかのようなフレーズが、私には時々聴こえる。)
これも、ドゥルーズとブーレーズのいうところの、被膜(enveloppe)としての高度な顕れではないでしょうか。。💡
ベンヤミンは、これを文中によくある
「引用」
にも見いだす。
どこからか、その文脈から取り出して違う文脈に新たに挿入して、生かしてしまう引用。接ぎ木の方法🌳
新聞記事🗞️から何から何まで、引用に溢れてる。「木」でできた机から。こうした、生活のなかにひそんだあらゆる「覚醒器」、「史的唯物論」として、ベンヤミンはパッサージュから何から何までこの世のとるにたらないものにまで、神様の時間を見いだす仕事をしてきた。
さて、なぜこんな「第三の場所」の確保がそんなに必要なのか、、、?
そこでもう一度、よく言われる時間のクロノスとカイロスのこと。
でも、時間の二重性には、作曲家や哲学者たちによる様々な言い方があるよう。(捉え方がある)
・筋目のある時間と筋目のない時間。(時間の泡)
・世俗的クロノロジカルな時間とカイロス。
・時間と永遠(時間の終わり)。
・史的唯物論とメシアニズム。
・歴史的時間とメシア的時間(ユートピア的時間)。
ベンヤミンは、ダイレクトな神学を隠すために史的唯物論で語り始めた。時間がなくなるとき=永遠ということを考えると、そこにはどうしても聖書のあの世界観…終末論。
(今回のB→C、冒頭のバッハのカンタータBWV20でも、永遠Ewigkeitは大切なモチーフ。---おぉ永遠よ、それは雷のことば)
音楽家メシアンはクリスチャンとして、「時間からの解放」を第一義として、音楽をかく。時間彩色法🎨
彼の第一義だから、時間からの解放を音楽の中で描かないわけに行かない。時間と持続についての探求。ブーレーズも、そんなメシアンの仕事に敬意を表している。
ベンヤミンの語り方で有名なのは、クレーの「新しい天使」の読み取りかた。グロボカールの作品でも有名なこの作品。経緯は、沼野先生の『現代音楽史』p.246を📖
これを「歴史の天使」と呼んでいるのは、ベンヤミンであってクレーが名付け親ではない。
解釈とは、必ずしも作者の意図を汲むことが目的ではなく、その作品自体が解釈を生む、そんな解釈のあり方を体現している。これは、クレーの絵が持っている力と同じもの✨
彼は、翼を閉じられないこの天使から、この世の目に見える「進歩」を、もうひとつの目で、「破局」とみる。
彼は、もうひとつの時間を見いだした⌛
この世で目立たないもの。
=決して聴こえないもの。
それを人知れず、密かに訓練してる(私たちを訓練してくれる)ひとがいました。
そう、R.シューマン!
シューマン救済!(*´ー`*)
気違いはいつだってこの世の余分もの扱いとして。
彼は、なんと譜面に書きながら、聴こえない「声」を聴き取って、私たちに、見せてくれました。
フモレスケの、2曲目のHastigに顕れる中段の、Innere Stimme✨(譜例3)
これはなんのアナロジーかしら。
天使の声?
そして今回演奏する
『天使の主題による変奏曲 WoO24』
最後のVar.5は痛々しいほど。(譜例4)
テーマを正確な耳で聞き取ることは甚だ、困難。
最初だって、どうしたらEs Durの1度に聴こえる?
aのナチュラル。
これにはどんな説明ができるだろう?そもそもそんな申し開きが必要?😹
一歩進む度に刺さったトゲが自らを痛めるかのように、醜い、足手まといな存在が最後までついて回る。
ある意味、これだけ「耳に」顕れているのだから、Innere Stimmeより、私たちには訓練しがいがある…??!
むき出しの謎として。。
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