《250年目のtell me…「B'」通信★その2》
さて、 Boulez : Sonate No.2
大きいな。長いな。そして、むずかしいな。いったい、何が、ここでは尋常ではないのだろう…
---とりわけ初期のスコアは、ある種の理想(ユートピア)が現実に勝っていて、とても難しいですね… by Boulez
新刊「ブーレーズとの対話」では、なんとも素直な胸のうちを打ち明けてくれている。
でも本当に、音響で実現できる以前に、譜面に書き起こすことでさえも、こうやって「夢を(言葉にならないものを)現実にできる」、クレー流に言い換えれば「見えないものを見えるようにする」ってすごいこと。
このBoulezの第2ソナタを、 アントナン・アルトーが自作の朗読で見せた、一種の「生理的」にまで迫るような直接的表現の、音楽的等価物として感じることは、、あながち行き過ぎた見方ではないはず…
決して、
アタマ
だけで到達できる音楽ではないもの…。
pianistのデイヴィッド・チュードアも、この第2ソナタでどう奮闘していたか、Buncademyの澁谷政子先生の講演で知ることができた。
-----アタマで、弾けることはわかる。でも、なぜ?どうしても、うまくまとめることができない…
↓
"アルトーを参照せよ!!"
尋常でないテキストに、どう挑むべきか…これはちょっと、現状から勇気を出して「飛ばなくては」いけないのではないか?! ということ…。
肉体的にも精神的にも感情的にも一種のアスレチックが必要だ!
ブーレーズが、アルトーの、あまりに直接的な、言葉から抜き出た音素に「叫び」が加わった朗読を体験したことによって(1947年か1948年の出来事)、彼の「作曲行為」は、より、「演奏行為」の重視に繋がったのではないでしょうか。
それは、彼がアルトーに接する以前のソナタ1番の創作から始まっていた…狂気のピアノとしての、あの衝撃の新しさ…、そして、ソナタ3番への演奏行為そのものの、譜面への介入に繋がっていく。
非論理的な身ぶりが問題になってくる。
∴彼は、伝統的形式に対する破壊主義者に映る…
むしろ、ブーレーズこそ「アタマの人」というより、
「身体にはある無仮説の原理が隠されている」…それを掘り起こそうと努めた人。そう思うようになりました。
私は喜んで、そこに身を捧げる、参画する!
今回、2度目の覚悟です
近藤譲先生もおっしゃっていらした「radical」って--過激、急進的--という意味と共に、--生来の--って意味も合わせ持つこと。
ブーレーズの 「錯乱を組織しなければならない!」 という有名な彼の原点とも言える声明の意味を、ここで咀嚼して味わってみたい。
-----智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は生きにくい…by 漱石
そんな、漱石ももがいた、人事の次元を越えたところでの、非論理的勝負の大傑作。 ちょっと、漱石先生にも聴いていただきたい音楽かもしれない
「智」と「感情」どちらが必要かってそれは両方必要に決まってる。
「智」 もちろん、「セリー」という網の目を使いつつ、セリーを分割的に主題としてそれを用いつつ、それが主題とわかる、わからない、の瀬戸際の知覚を利用して展開が行われていく。
また「感情」を追いやるというのでもなく、心理的なものはあとから自ずとついてくる。
ある局面で、後期ロマン派、それとはまた異なる高血圧な音楽の大きな脈を、わたしはこの第2ソナタに感じ始めています・・・
「私は、やっぱりブーレーズが好きだ…!!」
と密かに思えるのも、やっぱりこの音楽を知るだけでも、見るだけでも、眺めるだけでもなく、触って体験して、体感・実感しているからだと・・・
細かいことはプログラムに書いたので今日は、だいぶアルトーに片寄りすぎた感がある、この辺りで。
とにかく30分、全4楽章を一気に感じること。体験すること。
Kommentare