• yumiko segawa

ボンズ『聴くことの革命』&指揮:フランツ・ウェルザー=メスト&近藤譲!!


ベートーヴェンシンポジウム@芸大

ボンズ『聴くことの革命』&指揮:フランツ・ウェルザー=メスト&近藤譲!! (超絶な☆通訳:福中冬子氏)...

のお三方の対談!アルテスパブリッシングさんの情報のお陰様で、Buncademy メンバーで駆けつけることができました。 やはりこの著作の内容を貫かれ、そこに近藤譲氏のクセナキス論が入るなど!多角的で濃密な時間でした☆

約1年前まで、Buncademyでの近藤譲先生〈読書会〉で読み続けた、あの『Absolute Music』のBondsさんです。 サインまでいただいてしまった(*^^*)

メストさんの来年6月のプロメテウス・プロジェクトの前宣伝も兼ねたこのシンポジウム。 『プロメテウスの創造物 作品45』から始まり、全ベートーヴェンsymphony を演奏するこの狙いは、この作品の中に、ベートーヴェンの全作品(全生涯)に貫くリズム、音型、動機が潜んでいるから、というもの。このギリシャ神話のプロメテウスは、人間に火を与え、1つの能力を授けた巨人であるけれど、この存在はベートーヴェン本人にも当てはまる!

プロメテウスは火を与え、ベートーヴェンは、我々に知覚を与えた!

----なるほど!ベートーヴェンは正にプロメテウスだ!!

ただ、この火には責任も伴う、とボンズさん、鋭いご指摘。火だけではない。

言語も!

ヘルダーリンの最後期の詩の断片で、

「あらゆる財宝のうち、最も危険なもの、言語が与えられているのは、人間が創造し、破壊し、没落し、永遠に生き続ける師にして母なるものへ帰ってゆきながら…学んでもちつづけてゆくもの…いっさいを保持する愛を証しするためなのだ。」(手塚富雄著作集2より)

これも頭に浮かんだ。

当時の時代性、“善の戦い”。 音になった哲学。ベートーヴェンは遺書に書き記したように、哲学者にならざるを得なかった…

そして崇高さについて。芸術の定義とは、崇高さか?…

「そうした感覚は、20世紀のクセナキスの音楽にも繋がるものだ!」 と果敢にベートーヴェン論議に切れ込みを入れた近藤譲先生\(^^)/

(ブーレーズが唯一指揮をした)『ジャロン』をかける。

“崇高な”音響が鳴り響く…

「これは、細部を聴いても全体を聴いても楽しめるベートーヴェンとは違って、“大きな構造”聴くようなもの」(要約)と。

そして、 「クセナキスには遊びがない(細部聴取のゲームがない)」と。

いやいや…でもそこは…

ここは、 密かに、譲先生に反論したいところかもしれない(>_<)

今、初期のピアノ音楽『ヘルマ』さらっている訳だけれど、細かい音ひとつひとつに向き合わざるを得ない。なんだか最近、クセナキスの“あそび”を感じるようになっている。割と同じモチーフがあらゆるところで登場する。リズムが呼応もしている。

A.B.C の素材が複雑に進展していく数式の過程が音楽に。この記号論理学も、ベートーヴェンの音楽つくりの作業=哲学者の思考作業とどこかでつながるものではないか?そう感じてしまう。

近藤先生が、ベートーヴェンからの崇高さ(をもとめる思想)の概念がクセナキスまで続いていることには、そういう意味で私も共感しています…(>_<)

ブーレーズが『構造』でガチガチのセリーで書くことで実験(実践)していたときも、

「響きの進展というものは、唯一残されているのだから」

----響きの進展も形式というのか?…

というようなことを、『線の音楽』でも触れているけれど、形式とは…定義できないけれど、“内的なドラマ”“内部のドラマ”だとメストさんもボンズさんも口々に。

「何をしゃべっているかより、音楽そのもののドラマ、音楽のなかにあるドラマを探さなくては!」と。\(^o^)/

誰かのため、とかではなく、 崇高なものへ。

善への道は、つづく。ベートーヴェン生誕250周年へ、まだまだ道なかば。


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