毎日ごはんも美味しいし、お家の中でしたいこともできている!
でも、ともすると…このまま人類はついに滅んでしまうのかなとも思う。 しかも昨年まで私たち地球のリスクは感染症だけではなかったはず(/_;)
あわい--間--。
この緊張感から逆に、時々不気味な楽観的気分にさえ陥るときがある。
これは、2020年4月のリアルな感覚。
舞踏家:大野一雄という人は、現実世界に囚われず、ずっと前から常に「死者」でいらっしゃった。
……死と生のはざまを歩いている
大野一雄さんの原点は、この感覚だったと。かの土方巽が『劇薬ダンス』とも呼ぶほどの危うさを。
でも、私たちは現実いま、この「危うい境界」にいて、大野一雄のこの感覚の原点に既にいる訳だ。
あとは、それぞれに「想い」があるかだ。
「想いがなければ、生きるに値しない」
=踊るに値しない!?
こうした言葉を大野一雄さんから引き出したのは、舞踊評論家の石井達朗先生。
そう、石井先生の『ダンスは冒険である』論創社 は、2月末に出されたばかり。恐れ多くもも贈って頂き、かなり大事に読ませて頂いている。
達朗先生との出会いは田中泯さんの踊るplan-B。忘れもしない、国立音大の定期演奏会に泯さんが 踊りに来てくださった2009年。あのとき、モートン・フェルドマンの『why patterns?』で恐るべきピアノ演奏体験をしたのだった。
あのとき丁度、ピアノを弾くこと自体に疑問がありすぎた時期で、 泯さんの
“カラダ” 体験を経て、舞踊家という存在にものすごく感動した。
なんだか音楽家よりも、とても正直なモノを見てしまった気がしました。
手のひらをゆっくり返す…
振り返る…
立ち上がる…
そんな動作を、本当にゆっくり、汗をかくほどに、全身全霊で。
この動作の中に、すべてを含む。
それから、私はピアノを弾くことができているだろうか?(>_<)
石井先生は私のはじめのリサイタルから厳しく聴きにきてくださっている数少ない鋭い聴き手のお一人。
毎回、mfの幅が狭いのではないかなどから始まり、
一生懸命買ったというか、装着した、パニエ入りのドレスも、臆せずに「NO!!」と突きつけられたも達朗先生である😹
それ以来、年々私のドレスがか細くなっているのは気のせいではないw
あれからずっと、先生の一言一言でかなりの気付きを与えていただいている。
まぁそんな訳で、先生のフットワークは軽くて、広くて、深い。こんな私の演奏会に至るまでの都市の劇場公演から、アジア地域の祭祀、伝統芸能まで。現在に於いても、先生のフィールドワークはそんな両極からなっていらっしゃる。
今や舞踊は、「踊らない」ということも含めて、とにかく“カラダひとつ”といえども、舞台は重層化している。サウンド、言葉、照明、身体のアクションが複雑に絡み合う空間・・・
しかし、今はそんな生の公演に立ち会えない。
だからこそ、この260ページ、言葉だけで綴られたこのダンスアーカイブの本には、イメージ写真がたった3枚しかないに関わらず、いつになく感動を味わわせていただけることに感謝です(;_;)
コンテンポラリーダンス、舞踏、ポストモダンダンス、ストリートダンス、サーカス、ボディポリティクスに至るまで。
主要な舞踊家たちは、
ケースマイケル、アラン・プラテル、ジゼル・ヴィエンヌ、イスラエル・ガルバン、ピーピング・トム、勅使川原三郎、大野一雄、山口小夜子、笠井叡、室伏鴻、謝徳慶など。
アメリカ、ヨーロッパ、アジア、日本・・・と、とにかく巨大舞踊パノラマ世界のアーカイブを家の中に居ながらにして仮想体験させてもらえる。
その実感は特に、舞踊家たちの、生の「言葉」のちからでした。
直接的で、正直で虚飾がなくて、同じ人間としてすごく「わかる」言葉を吐いてくださる。
彼らの率直なインタビュー形式も盛り込みつつ、やっぱり私に響いたのは、大野一雄さん、室伏鴻さん、そして勅使川原三郎さんの言葉だ。
そして、彼らの更に上、大閻魔サマに、常に土方巽の存在が。土方巽の言語が、やっぱり今の今まですごい力が及んでいることを感じざるを得ません。
自分が生まれた時に、この方は彼方に逝かれたことを知った。『病める舞姫』をこの目で見たら、またもっと人生が変わっていたかもしれない。
そしてやっぱり、こんな“今”だからこそ、「あわい-間-」の感覚に惹きこまれる・・・
最後に感動的な、石井先生と室伏鴻さんのインタビューから引用させてください。
その長い引用のあと、土方巽に繋げたい。なんだかそれは、わたしたちの未来の築き方のミチビキ的予言の言葉にきこえる。
---「息」と「軸」の交差、交錯がすべて。要するに、均衡=不均衡。それは何かといえば、「エッジ」のバランスですよね。
実際にバランスが成立した感覚を知るところから始めないといけない。
軸に同一化するのが、「死」。身体の中にそういう瞬間があって、その瞬間がある意味の死の模擬、写された時間です。
スレスレです、そのズレが「生命」。
つまり命というのは、その軸から絶えずズレることの反復でもある。
生きて呼吸しているという感覚は、常に軸からズレる移動の中にあって、その隙き間のプロセスの中に死の時間がたたみ込まれている。
命とは、大変パラドクサルで同時的なんです。
だからむしろ、それを舞踏=ダンスと言っていいのですが、
(その感覚を言い換えるなら)
流れ、生命の「危うさ」と「果敢さ」ということです。
→そこを、
土方的に言えば、
「衰弱体の採集」。
ようするに、ある種の生産性から逸脱してしまった体、それは不能であったり、不可能であったり…不可能性から立ち上がるということ。
やはりそれは戦争が残したものではないか。だから、ある種 “不能力” というか、不具性につながるような共同体を考えていた。
・・・本当の生産性って何だろう。
ここからは、自分で考えなければ。
「踊りの運動性というのは、単に動き回ることではない。不動の中に運動性がきちんと折り込まれているわけ」で、
やっぱりここは、
「生命」中心の生産性へ。
何かを生み出すのでもなく、
ありのままを「生かす」
生きる…
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