西国分寺・300年古民家の温もりの中で、私が生まれる前から、半世紀近く続く😳会員制のハウスコンサートの264回目、が本企画。
大層な告知がないのに、言わば口コミで会員が集まり、毎月嬉々として、気楽に、でもすごく真剣に聴いてくださる方々の目つき顔つきにとても励まされました!
その意味では、「熱いシークレットライブ」現象を起こさせる何かがここに…(!)
私も演奏家として、「助けて」いただきました。フトコロは、「心❤️」です。
曲順も明記がないので益々意味不明かも知れませんが、「相もかわらず凝ってますねー」でもなんでも…(*_*)こうして自由にプログラムして何か思索して実現しようと試みることが何よりも生き甲斐です。
そしてそれが何らかの形で伝わったと思う瞬間が、「報酬」…
やはりこちらに集う「聴き手」の方の心からの好奇心に溢れたエネルギーを感じることが大きいです。
世の中のエネルギーの循環🔁は、経済も含めてこうしたコミュニティから発生しているのではないかと、ふと噛み締める1日でした。
ハウスコンサートは、本当に「小さい」のだろうか?🤔
「最も美しい喩えのひとつ」
と、このコンサートにクレーの絵画から名付けましたが、偶然にも今そんな感慨にふけっています。いみじくも、今現在、スイス🇨🇭ベルンのクレー・センターではこの絵画がメインの企画展が催されています。
さてプログラムは、
J.S.バッハ、ショスタコーヴィッチ、プーランク、シャリーノの「前奏曲」8曲を含む、春の予感めいたものであり、1曲目のケージの未亡人ソングは、ノリスの🎸の贅沢な打楽器なしで、ダンパーペダルを踏み込んだ状態でピアノの蓋を叩いて1人二役で響かせました。
そして、こちらのオーナーの小俣さんは福士則夫先生の幼馴染で大ファンでいらっしゃることは明記しなくては😎福士先生の「とぎれた記憶」以外のピアノ曲「霧の深い朝」は結局今回弾きませんでしたが、これはショスタコーヴィッチが反映された作品で、そこで使われた音に基づいてバッハの平均律やショスタコーヴィッチの前奏曲・フーガなどの調性をチョイスしました。D-Es-C-h
ベリオの「鍵盤シリーズ」は、本番で弾いてみたかった曲。「火のピアノ(1989)」、「空気のピアノ(1985)」は、「見つけられるべき曲線上の点(1974)」を少し彷彿とさせるものがあります。やはりベリオは収縮と拡張を繰り返しつつ耕した作曲家なのだなぁ。
ベリオからシャリーノへも自然な以降で、あまりにも親和性を感じました。前奏曲が多いこのプログラムで、また自分自身のベリオとの出会いが、このシャリーノの不可思議な譜面「前奏曲」との邂逅へ。
同時にできない不可能生を一気に書くことは、有効な手立てかも知れない。第3の手が生えてくる感覚を教えてくれる。
あとは、八村義夫さん。このプログラム全体が予感めいたものになった要因は、八村さん19歳のピアノのためのimprovisationと、ブーレーズ20歳のノタシオンを対に置いたから。この時点では、八村さんが非合理でブーレーズが論理的だ。ただ、ブーレーズのノタシオンの中に見出されるヴァリアントのコレクションの中身が今後非合理的な茂みをちゃんと用意してることを感じる。
そしてプーランクは、心から尊敬する大好きな作曲家。プーランクの逞しさは永遠で、爆発のエネルギー、即ち目眩く立ち現れるプーランクの「瞬間」は、過去から到来したものでもなく未来からやって来たものでもなく、「実体の底から衝き上げて現出するもの」なんだろうと、存在論がしっくり降りてくる感覚に。それはもう一人の逞しいショスタコーヴィッチにも通じることを今回発見。
「思い出の中から引用された、迷路」より🐾
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