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yumiko segawa

別様の作動2 in 1 in 2 ★ その12★ プログラム演目分節化①変拍子 vs 一定の拍節(+その他諸々の変化)


★別様の作動 2 in 1 in 2 ★ その12

 

プログラム演目分節化

①変拍子 vs 一定の拍節(+その他諸々の変化)

 

音楽として立ち上がる過程には、「生命プログラム」の意識が必要だよなぁと…🤔

 

---リサイタル・イコール・作り方 

 

星谷さんが『四季』類似作品のひとつ、管楽器デュオ作品に『遺伝子学の歴史』と、名前を名付けたのにも頷ける💡

 

だって今回も、小節線もリズムの分節すべき一切の表記がない、宙吊りの譜面から始まるのだから…

 

・ルイ・クープラン:フローベルガー氏の模倣による前奏曲

 

---先に「原情報」がまずあって、それから「様式」が生まれた、と。

 

これを「生命の情報プログラム」として松岡正剛さんが知の編集工学』(朝日文庫)『でもその「始まり」を、分かりやすく書いていらっしゃいます🙋‍♀️

 

その過程を、“生命の発生”そのもののこととして「編集」を説明されているのには、物凄くピンと来るものがありました💡

(「生きた編集化」に現在の状況が追いついていないことがよくわかる…📕)

 

---リサイタルのプログラムも、編集、だから💪

 

音楽の発想の起源としての生命の「メタプログラム」or「原情報」ともいうべきものがあって、あとからそれを保護する「細胞膜」ができた💡という考え方。

 

要するに、「細胞膜」は、音楽で言えば以下のような「分節」する手立て。それを、グルーピングとも言えるかもしれない🤔

 

→小節線やリズムの発生、

「音」そのものの境界線の見極め、

テンポの差異、

書法や音域、音色、楽器編成の変化、

オリジナルの音型とその差異、

小さなフレームの中のシンメトリーという構造…etc.

 

全てこれらは後からメタプログラムを保護するために作られた「細胞膜」と思えば良いのであって、ブーレーズが盛んに

 

「外皮だ!外皮だ!」

 

と曲の進展状況を説明するこの言葉「外皮-enveloppe-」にも、益々音楽そのものの大きな意味を感じられてくる。

 

音程や音高だけに縛られない、音域、音色…etc.という、どれか一つの次元が、他の次元からの優位になった「類型化」の状態、その方向性が、「外皮」であって、一体「何」で包むのか?それが音楽の進展の方法になってくる。

 

(フェルドマンの、「音程や音高より楽器の音色と音域がより大事である」という言説に、1歳年長のBoulezと少し近い感覚を見出すのは、早とちりかもしれないけれど。

極論:ブーレーズはシェーンベルクより、実はフェルドマンの方が近い面「も」あったり??🤫)

 

だから、私たちは、ブーレーズの音楽には知覚的にその進展について行ける、はず、、、なのだけれど✨

 

とにかく、

その「細胞膜」の在り方によってまったく知覚の形態が変わってくる訳だ。(そんな言語化しなくても作曲家なら常に誰しも考えている…🤯)

 

ここで問題外なのは、「原情報」という海に関わることなく、はじめから出来合いの「様式」から関わろうとすること。

 

それは順序が違う⚠️

 

これに断じて敏感に目を光らせては容赦なく糾弾していったのがブーレーズの身振りだったのではないか?🫡

 

「ソナタ」とか「フーガ」「舞曲形式」という“従来の容器”は破壊すべし…

 

という前置きは置いておいて、

 

ちょっと本プログラムの中で比較学的な、境界が曖昧なことを考えてみる…💭

 

★譜面上、変拍子では書かれていない曲は、

 

・J.S.バッハ:イギリス組曲第3番(それぞれ)

・クセナキス:ミスツ(4拍子)

・シェーンベルク:op.11-3(一部除き8分の6拍子)

・星谷丈生:四季(3拍子)

 

★変拍子で(or 変拍子的に)書かれている曲は

 

・ルイ・クープラン:フローベルガー氏の模倣による前奏曲

・バルトーク:戸外にて(おおよそ)

・ブーレーズ:第2ソナタ

 

一定の拍子感の担保があるからといって書法やリズムの密度変化はすさまじい。

その変化によって、rit.と書かれていなくても、静止への方向を伝える手段になったり…

 

また、それとテンポの小刻みな揺れ動かしだったり変拍子の曲との間には、差異がありつつも、不思議な連続性も隠れているような気がする。

 

「世界の捉え方」が、譜面に先ず現れる🌍

 

もちろん、時代も慣習も違うこれらを同じ土壌に載せるわけにはいかないけれど、要は、それらの「分節」によって全く違った景色が見えてくる、という「分節」の問題。

その意味では、これだけまったく違う音楽たちが、実は皆同じ巨大な「原」情報という海から救い出している、という印象を受けるのです。

 

「分節」の方法によって!

 

だからこそ、演奏家は、その作曲家によって吟味された「分節」をよく見極めて、正確に演奏しなければ、その差異、その世界観を正確に浮き上がらせることはできない。

 

だけど、その目の前の現実的な末端の「分節」に囚われすぎていると、実は見失うものも多い。(脱水症状)

 

歴史が刻まれればそれだけ「分節法」の「痕跡」が残っていく🐾

 

だからこそ、新たな分節を探すには…

 

そう!

その痕跡の記憶を今や私たちは忘れることは不可能なので、膨大な「痕跡」の記憶から、

 

—-新たな対角線をさがす by松岡正剛

 

それの「分節以前状態」とのオーバーラップがなければ本当の意味での演奏・聴取の目的である生き生きした「創発⚡️」は何も起こらない…

 

---クレーは常に「原」にかかわって得てきた方法で、日々「原植物」なるものを生き生きと描いていた🪴

 

さて、去る11/28日仏現代音楽協会「日本とフランス」公演で聴いたアラン・ゴーサン:Eau fort(食刻)の聴体験を思い出す。

 

そこでは、

 

[固定されたテンポー不安定なリズム]

[不安定なテンポー固定されたリズム]

 

のゆったりした変化から、私たちは時間の知覚の歪みを強烈に体験しました⚡️

 

そして、最後に絶えず対立していた、リズムとテンポは、ピアノの同音反復の上で、リズムのユニゾンが奏された時に、最後には結合したかのように聴こえました!

でも、とても不思議な、割り切ることのできない一本の線体験でした🤯

 

ああこれか💡と。

 

周期的なメトロノームと、前のみに前進し続ける後戻りできない乱雑化への「時間の矢」との相互作用力に満ちた結合という、永遠の謎に挑んだ素晴らしい作品だったのか…

 

---行き来可能なミクロ現象から、マクロ現象における不可逆性な未来への一本道が生じる

 

or

 

---ミクロな方程式からどのようにマクロな不可逆性が立ち現れるのか?

 

とにかく、演奏は一度弾き始めたら後戻りできない1回性。その「時間の矢」の中に生きざるを得ないのだけれど、ミクロの視点から多くの周期性、多くの慣習、多くのアーティキュレーションetc.の網を潜り抜けていく。

 

ここに、時間を「滑らかに」やり過ごすことなんてできない、たくさんの多方面への「装置」を仕掛けてくれた作曲家たちに感謝します。

 

要は、「分節」によって「生」そのものを何度も「生き直す」冒険なのだ💃✨

 

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vol.10 【その2】 2024年 1月27日(土) 

開演 16:00 開場 15:30   @ トッパンホール

 

植物的で不可思議な: to B 個体・ほころび・創発

 

・ルイ・クープラン:フローベルガー氏の模倣による前奏曲

・クセナキス:霧(ミスツ)

・バルトーク:戸外にて 

・J.S.バッハ:イギリス組曲 第3番 ト短調  作品808

・シェーンベルク:3つのピアノ曲 作品11ー3  

     ・・・

・星谷丈生:四季 -ピアノのための-(2016)

・ブーレーズ:ピアノソナタ第2番(1947-48)【全4楽章】

 

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