健気な…
突破力。
「最初から最後まで息つくことなく、ずっと惹き付けられました…」は、なんて空虚な言葉。前のめりで意識的に聴いているうちは、この人の“突破力”の正体は掴めないのでは…??
だんだん、背中と足の裏で聴き出す。
正直、私たちの感覚に対して「魅せ続ける」という努力は払わないようにも、相手にしているようにも、みえない🙈
彼の音楽には、中途で、“中弛み”ではない、なんとも、ちっぽけな「判断」では理解できない「退屈さ」が、そんな時空がなんとなくぽかんと現れるように感じるわけだけれど、これを突破しながらも、作曲家自身の「信」が強いだけに、77分間、なぜか込み上げる「信頼」をもって、その場で聴き果せてしまった。。。
後半のバレエ音楽『クラーネルグ』(オーケストラとテープのための)の第3部、ほぼ電子音響からなる長大なコーダ。
ここに至るまで、移行するまでにノイズ、電子音響が幅を利かせてくる様…次第に、「鳴ってくる」!!
…あぁだんだん「白く」なってきた!✨
正直、『クラーネルグ』冒頭では、音響が鳴らない、荒れない、なんというか、、、
…白い、ホワイトノイ…
そう、湯浅譲二の『イコン』が足りない!(><)ぜんぜん、そこまで追い付いてないよ💨
って、心の中で叫びながら聴いていた訳だけれど、なんというか、思いが通じたのか、後半が圧倒的に面白い人。…本当に鳴ってきた!!
---クセナキスは、「待っていた」❔❕
それは、前半の『ペルセファッサ』(6人の打楽器奏者のための)で、イルカのテレパシーみたいなピヨピヨが始まった辺りの後半から、シンバル音響とともに、ちょっとサントリー場内が、「白く」煙って、円錐上に煙が立ち上るように、飛沫が、風になって、旋回し始めたところから感じたことに、近かった。
クセナキスは、「待っている」…❔
飽和して「くる」ものを、待っている。
私にはそう思えて、とても正直な時間の流れを聴いた気がしました。
なんとも、健気な運動。
それは、はじめから妙な予感めいたものを敢えて“魅せる”ような素振りもなく、本当にただただ、脇目も振らずに「突破していく」、この力強い、「突破力」を聴いているだけ、のように。
生きたように見せかけた持続、でもなければ、イベントをたくさん並べた造られた持続ではなくて、とことん、「突破力」、「信」、「生(成)」。
個人的に、私にはまだ理解することの叶わない、ファーニホウの「持続」に対して、圧倒的に「信頼」を寄せて、その場で聴き果せてしまった、クセナキスの音楽。
こんな聴き方、彼の生き方、ロマン主義以外のナニモノでもない…ですよね🤔
真から、古代ギリシャ人の「魂」復興人だ、クセナキス。。
----Sublimity is the echo of a great soul
(崇高とは、偉大な魂のこだま)
これはロンギヌスの『崇高について』の一文だけれど、まさに古代ギリシャの修辞家ロンギヌスの言葉は、未だに、「効いている」❕❕
この一文を引用できるのも、近藤譲先生のBuncademy読書会参加者であったからこその、舞い降りてきたお導きの引用フレーズだ。
『鏡とランプ the mirror and the lamp / 著 M.H.ABRAMS』はJo Kondoの愛読書だけれど、何かにつけて、ここには今現在、音楽を聴く上で引用したいものがたくさんある…💡
不思議な本。
要するに、今回のクセナキス聴取体験も、どこかなんとなく帰着したいかといえば、古代ギリシャ人の、このロンギヌスの「崇高」概念が、19世紀のロマン主義者たちの原典、根源になっている、ということ🤔
要するに…
19世紀からのロマン主義は、クセナキスにおいてまだ続いている、「ロマン主義時代の引き延ばし」への、近藤先生の提案は、昨日77分間、サントリーホールであの「健気な突破力」を聴き果せてしまった人たちの中で、静かに了承されてしまった。
とも。
こんな「圧倒的」な音楽
に対して、
剥き出しの並べ立てた「方法論」は、
今後、敵うのか…?!🤔
いや、いみじくも、昨日のサントリーホールを100%にした “X” は、「剥き出しの方法論」で、「圧倒」した。
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