• yumiko segawa

ゲルハルト・リヒター展@東京国立近代美術館 イリュージョン肯定✨



3つの希望的観測!?🔭(イリュージョン肯定✨)


・あるものを 見えなくする

・見えているものを 見えないものから

見えるようにする

・見えないものを 見えるようにする


が、今、頭の中でぐるぐるしています🌀


これらはリヒターの言葉でもなく、個人的な感想も兼ねて。この中の最後は、クレーの宣誓だけれども🎨


複製魔術師リヒターの「戦略」によって、自分の中に“ものの見えかた”、引出しが増えたような気がする。すでに、ずっと以前より議論の対象であり続けた人物だったらしい・・・孤高の、近づきがたい存在、として・・・❔


私にとっては初対面・初体験🐾


なんだか今や「比喩」としてあらゆることが想定できそうな3つのたとえから始めてみる…💨


リヒターのイメージタンクは、射程が広すぎます(*_*)

とにかく心底、ものすごく集中した作業の賜物を感じる作品の数々でした。。


静かに挑発を受け続けています。だってこの展覧会を観に行ったのは1ヶ月前。

内容はone of themで、ちょっと勝手にスケッチしてみる💭


・・・・・


「否定」の形で目の前に現れる方法🤔


「方法」がそのまま作品になってる。


ことごとく否定弁証法で迫ってくるので、たぶん、私たちは「直観」でしかとらえることができないのかもしれない(><)


しかも、さっ、と。


ひょっとしてリヒターは禅の僧侶なのでは・・・❔


「私には、何が問題なのかわからない」と発言する方がいらっしゃるなら、その方には実感も沸かない世界では、、、


私たちの目にも記憶にもイデオロギーが知らず知らずにくっついていて、絵画をみるにも、「名前」「年代」「写真」を見れば、必ず何かをくっつけて見てしまう。


「ありのまま」って問えば問うほど難しい…


でも、そこに歴史を見る上での「倫理」というものを持ち込んでくると、どうも「芸術」にはそぐわない気がする。


芸術は、歴史の「責任」を担うもの??


でも、ここでこそ、「倫理」を示す場になるのかもしれない💡

デリケートなことには蓋をする、のではなくて、「倫理的」な、「方法」が究極に問われる。


そんなときに、リヒターは冷ややかに私たちの「目」の働きに、残酷に、茶々をいれながら、プリミティブな次元に連れていってしまう装置を導入する。


---ポルノ写真と、収容所に横たわる女性の裸体(アウシュビッツ)の並置。


(今回、東京にはこちらの『アトラス』は上陸していませんが。展示されたのは、同じアトラスでも、『カラーチャート』。実体性より、「私たちは今、どこにいますか?」を問う。)


アウシュヴィッツの歴史性、これと芸術の中でかかわろうとすること自体、憚られる…だけど、「それでも」、なのか、「だからこそ」なのか、ここまでこれを美術に持ち込む1人の画家の静かで究極の「働き」それ自体を、まずは、全身で、しかも直観で感じ取ろうと思った次第です。。

日本も、至極「危険な時代」にいる訳だから。


アウシュヴィッツとかかわりながら、ものすごくかかわること自体への最大級の「否定」が、ものすごい形で現れた…


まずは、『ビルケナウ』。


まずはというより、今回、ここに集約されているように感じました。


ここには、もうアウシュヴィッツが見えません。でも、どうして、どういう行程でこのあまりにも悲惨な写真が見えなくなったか?


---それは「スキージ」

(色は、白・黒・赤・緑、、、スキージすると…?)


については、何かを事前に読まなくても展示部屋に行けば暗黙のうちにわかる。。


(※→4枚の悲惨なアウシュビッツ写真は隅に展示されている。だけど、それを下地にしながらも、その上に、この痕跡を残さずして「スキージ」の方法で絵の具が塗り重ねられたアブストラクト・ペインティングとなった4枚の大きな絵画作品が並ぶ。向い合わせには、その複製写真された同じ(?)4枚が並ぶ。そしてその真ん中の壁に、大判グレーミラー。)


これはリヒターの「戦略」というより、時間の経過、作業から自ずからそうなっていったのだろうと、静かに納得してしまうものがありました。


あの「痕跡」がないが故に、作者自身の心身の傷みも感じる…その身体性がすごく色の質感に表れている。。


目の前にグレーの暗いミラーがあって、私だけじゃない。周りの多くの観賞者さんも映りこむ。そして、もちろん、両側の向い合わせの『ビルケナウ』4作品 - 4 作品も。


作品を見ている私たち。作品に取り囲まれている私たち。


普通、美術館では暗がり、ひたすら目の前の1点1点と向き合ってる。

なのにここでは、ミラーの中に映りこむ様を見る、こういうシチュエーションは今までなかった。作品との対峙だけではない、「対峙」空間。


つらい。


ミラーは、記憶装置でもないし、素直なありのままの今を映すだけ。


ありのまま…!?


この『ビルケナウ』空間に現れた、オリジナルから遠退く5つの次元。(様々な複製の重ね合わせ)


①アウシュビッツ写真

②その上からスキージしたアブストラクト作品

③②の複製写真

④それを生で対峙する私たちの目に移るイメージ

⑤それらをミラーの中で対峙する私たちの目に移るイメージ


この5段階の重層性は、いちいち①→⑤へ順を追って観るものでもない気がする。その場にいる限り、だれもが感じる。


そう、一瞬で①②③④⑤を即感じる!


走馬灯!

この一瞬の輝きのなかで。


『ビルケナウ』この出来事に、「輝き」という言葉がふさわしい訳がないことは勿論わかっているけれど、あの「歴史性」を芸術に持ち込むには、これだけ重層的な「複製」レイヤーの輝きでもって「瞬間」でしか表現できない気がする。


だから、ミラーを使うこの空間。


滞在時間が変わってくるのかもしれない…だって、走馬灯!✨


それから、ここで「複製」を含めて、作品にして良いのか❔の問題について。


リヒターの言葉によれば、


----描かれたものの表面と、あるいは仮象というべきものと、そのものの間にはまったく差はないのだ。(1993年パリ)----


考えたら、音楽では平気でオリジナルの音列が逆行、反行…で展開している。これをいちいち音楽家はオリジナルの複製と思って罪悪感で書いて奏でているだろうか…?(^^;


とにかく芸術上に、「レイヤー」を求めてる。こんな発想も方法も、パウル・クレーにそっくりに感じてしまう。


具象と抽象の行き来も。

何も具象を塗りつぶしたものに対して、このリアルな歴史性の題名をつけることもないはずなのに…これは、完全なるアブストラクト・ペインティングのはず?なのに… でも、題名はたいせつ。


「否定」することが、方法だから。。


また別のお部屋では、

フォト・ペインティング

グレイ・ペインティング

カラーチャートと公共空間

ストリップ

アブストラクト・ペインティング

コロナ禍、日記のように描いたドローイングと続く…


このことは、また別の機会にでも。


クレーにも、ピカソにも画家によくあるように、フォト・ペインティング作品には、まるで家族アルバムのような趣さえある。娘さんのベティ、奥さん、叔父さん…👧👩👴

もっとも「主観」が入りこみそうな素材に、あえてフォト・ペインティングの方法。


「主観性」を嫌悪しつつ、一切「他人事」がない場所。


こんな“厳しさ”が、今、東京のど真ん中に10/2まで居続ける。


(あとから来る) なかなかハードな時間⚡


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⚫「ゲルハルト・リヒター展」公式図録

青幻舎

⚫『リヒター、グールド、ベルンハルト』杉田敦 みすず書房

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