愛猫クララ♂に捧ぐ‥✨
ジャケットにこんな文言まで忍ばせてしまった、私にとっては静かに、個人的に製作したパウル・クレー企画第4弾のCDが、準特選盤として掲載されておりました📖(レコード芸術3月号)
音楽のCDらしからぬ、「アナロジー」の観点を掘り下げるべく、クレー研究で尊敬する前田富士男先生の胸をお借りして、背伸びをして、哲学的に挑戦的に踏み込んだ内容になりました。
とても、頭に汗をかきました(・・;)
製作に関わってくださったメンバー、色々な感想を送ってくださった皆様に感謝申し上げます🙇♀️✨
それが、バッハの名曲であり、その間にショパンのマズルカ、バルトークのミクロコスモス、湯浅譲二先生の「プロジェクション・トポロジク」で繋いだことはうまくいったのかいっていないのかの問題を越えて、クレーの画面の中での「造形的な諸方法との交際」が、思わぬ「奥行き」を持つことを、ピアノ弾きの立場からその解題に、CD製作そのものをその「アナロジー」として、挑戦してみたかったのです。そこで長年ふかく論じてきた前田先生だからこそ、この企画のご協力(ひとことエッセイ)を思い切ってお願い致しました。
恐らく、前田先生の文章と構造、言わんとされることは複雑で捉え難く理解されにくい領域のように思えるけれど、クレーという不可思議な怪人に出会った以上、アプローチはこれくらいでなければいけない気がする🤯
前田先生は、昨今「禅」の観想、そして身体性、
にも踏み込んで現代美術を言及される。セザンヌの水辺に映る風景がその上に描かれる風景と全くそぐわない、幻想⁉︎とも思えるこの事実からも、ふと「記憶」との連動作用を導こうとされる。
(セザンヌ:川のそばのカントリーハウス 1890)
--クレーの音楽は、単に楽しみをもたらすものとは考えず、何よりも人生を活性化し、究極的な存在に対する問いへと導くものと考えようとしている--
とアンリ・ミショーが言うように✨
それは、クレーの親しみのある絵から、私たちを遠ざけることではまったくなくて、むしろ、表面的なことよりももっと私たちに「親しい」はずのことへ、「必死に」言及する絵なのだとおもう💡
思いの外、かわいい猫の姿をしながらも、闘って(ときに、戦って)いる🪖クレーの生きた1910年代、20年代‥
彼が残した「痕跡」は、私たちの実際の経験と響き合わないと、生き生きとしてこない。体験に変える痕跡マジックだ🪄
そう、私も大事な家族を“ひとり”お見送りすると猛烈に気付くこと。クララ♂との繋がりは何らかの、ある「痕跡」でしかなくなる🐾
19年間ずっと一緒にいて、よく私の弾くピアノの隣に腰掛けて、「違うよ」の肉球パンチか、居眠り💤で、私の演奏によく言及してくれた猫でした。
それが最期の1ヶ月、くーちゃん♂の耳が聞こえていないことに気がつきました。それは朧げな目つきに現れていて、明らかにキラキラした精気がなくなっていくのです。
でも、「耳が聴こえないこと」は、体内から音楽がなくなることを意味しないことは、「あの方、B」が証明してくださったではないか!!🕺🏻✨
お見送りに、バッハのカンタータ20番「おお永遠よ、雷の言葉よ」を弾いたらずっと目を開けてこちらを向いて聴いてくれました✨そして3/15の「B→C」の3日前に亡くなりました。
やっぱりあれから相変わらず毎日、クララがいない不思議が続きます‥‥🐾
「都市の境界」、「境界」で緊張と争いが起こることは太古の昔からあることだけれど、境界に実際に立つことは、逆にその向こうに広がる「広がり」を実感できるか、自ずと希求することにもつながる✨
今も、あの国と国のあいだで起こっている戦争は、13世紀頃からの歴史的な背景も背負っている「境界」を巡る攻防らしい。
今の所、だれひとり、そこで正解を導いている人物はいないけれど、こんなときにクレーならどんな皮肉と示唆に満ちた言及をするのだろう‥‥🤔
きっと彼なら、事態が辛ければ辛いほど、表現は抽象度を増して、私たちの表面的な生活とは結びつかないほど純度の高い表現を目指すのだろうなと🍀
「線」のみで‥‥
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