「僕の思想は、昨日読んだ本だから…」---な、なんてイカガワシイ発想!! なんて『存在の耐えられない軽さ』…。
そう、何を隠そう、密かに密かに影で思っていたものです、先生だからこそ…あぁ、この近藤譲先生の、生で聞いた、吐息発言!( ゜o゜)なぜなら、仮に昨日読んだ本が如何わしいものだったらどうなってしまうの?ということになる。
何より、「私は、風見鶏です!」と自ら宣誓することになるではないですか!(* ̄∇ ̄)ノ
しかしあれから数年を経て、私もどうやら、このJo Kondo説に、近づきつつある…。このイカガワシイ方向に。。。
先日、『7日間ブックカバーチャレンジ』を、びっくり、光栄にもご指名いただいた(@_@)「7日間連続で、自分の好きな本を7冊を紹介する」というもの。 しかも、これは鎖のようにつながっている本の紹介による我々の連帯の証を表す。今は、「協力し合う」ことが色んなコードで読み替えられて、波及している。
--しかし正確に言えば、私は、うんと悩んだ挙げ句にこの輝かしいバトンを「受け取った。」ではなく、「受け取ることができなかった。」(;_q)
非連続、 一種の罪悪感。
そんなときに、あの言葉が甦る・・・
--「僕の思想は、昨日読んだ本だから…」
まず第一に、私は所謂、「読書家」ではないのです。私にとって、しっかり読了できた本がこれまでどれだけあるだろうか?(゜.゜) 目次だけ、1章だけ、一文だけ、そして読んだ気になっている本、辞書がわりに傍らに常に置いてある本、そんな本がゴロゴロしています。または、7冊に絞るとなると、当然あの頃の思い出の本、が登場することになる。あれは確かに私にとって大きな影響を与えた本! だけど、恥ずかしい気持ちにもなったり。またあの頃に戻るの?(>_<)と。されど、何を隠そう、今の自分からは完全には閉め出すことのできない、否定できない本。だけど、今の心境としては、違うことを考えているかもしれません。。。 否認。
そもそも、「本」というのは数えられる名詞なのだろうか。1冊、2冊、と。
最近、小沼純一先生が出された本に、 『本を弾く ~来るべき音楽のための読書ノート~』というものがある。 勿論、「本を読む」ではなく、「弾く」。 ちょっと本質的な、気を引く表現です。この本は、「ことば」、「場」、「からだ」の3つのセクションに章立てされ、それぞれにハイレッドセンターの中西夏之、ダンサーの勅使河原三郎の『骨と空気』などの作品まで、それぞれ7冊、8冊、7冊と、合計22冊の本への小沼先生の読書ノートが、つまり「1冊の中に、22冊が入れ子になった本」ということになる。
ここでたとえば、
---「1日1冊、7冊を7日間連続で」
と、
「多様性を含んだ1冊入魂を1回で」。
もしこの2つの方法があるとすれば、根本的な違いが存在する。 本を7冊という「物質」で捉えるか、それとも、却って偶然に選ばれた1冊という「限定」の設定から、「解放」へ。もしくは、敢えて「無限」への扉を開いていくか、のどちらか。
そこでそもそも、“本は数えられる名詞なのか?” の問いに立ち返る。
多くの引用なしに語られた本をこれまで見たことがない。そして、1冊入魂と言えども、どうしてもその時期、机の上には何冊かの本が乱雑しているもの。--そもそもそれこそ、私が1冊の本をまともに読了する機会が少ない理由かもしれません、、、🙈
本棚ごとに見る、捉える、もしくは読む時期、気分によっても、見えかたも驚くほど変わる。そしてまた、そもそも、 「本を読むために、本を読んだ試しがない(;゜゜)」 色んな状況に応じて、結局は何かを産み出すために、読んでいる。 ただ純粋に、それが “行動” を生み出す契機であったとしても。
---『本を弾く』
自分が何か書くときに、考えるときに、何かしら本を読まないことは、あり得ない。
---この世界を読みとく鍵はどこにあるんだろう?
書き手の「フィーリング」は、伝わり、それが読み手によって何かしら産み出されればそれで、「本」自体は、そこで役目を終える?! 誰にも読まれず、何物かに生かされないとすれば、あと残るのは、インクの染みのみ。「本」、「思想」はもしかしてそういったものなのかもしれない。その後、残された物が本であっても作品であっても…
要するに、「物質」でありながら、あまりに流動的なもの。つまり、「物質」ではないもの。 手に取ることのできない、“部分冠詞”がつくようなもの。(敢えて、ここでは定冠詞、不定冠詞すら否定される。)
それが、 「本」の正体なのかもしれない。
もしくは、この世に漂う空気のようなもの。超物質的なものとして。これは、「作品論」自体を揺るがす考え方にぶち当たることにもなる(!)
そこで、近藤譲氏の言葉に何度でも立ち返る。
「僕の思想は、昨日読んだ本だから…」
これに尽きる。
---「どこにもないユートピアは、バイオスフィア(生命圏)のどこにでもあるありふれた物質から合成できる」 by バックミンスター・フラー+梶川泰司=著 『宇宙エコロジー』
よって開き直り、私は、今の私にぴったりの1冊を選ぶことを契機にしよう! 昨日読んだ本、ならぬ、今読んでいる本を。さあ、長い言い訳は、これまで☆ ここからが本題だヽ(・∀・)ノ ・・・
「彼」について、今もう一度、何度でも再考したい。
そう! 2020年、ことごとく祝典される場が奪われた250年目の彼のことを。
ルートヴィヒ・van・ベートーヴェンのことを。
しかもアドルノの見方で行こう。
これが今の私の旬なのだから☆
上記の長い言い訳も思考実験も、すべては、このアドルノの“否定弁証法”に流れ着くために。。。
『ベートーヴェン 音楽の哲学 --改訂版-- / テオドール・W・アドルノ』 大久保健治(訳) 作品社
---そもそも、ベートーヴェンには「再現部」が似合わない。
反復は陳腐だ! 展開部であれだけ展開、発展しておいて、また再現部を設けて、同じ事を言うことは、ベートーヴェンには耐えられないことのはずだ。 同じ事を言いながら、それを越えようとしている?ともかく、ベートーヴェンはこの枠を大切にしている。
---そこが重要だ!
ハンマークラヴィーアop.106にいたっては、提示部の繰り返しまで要求する。
---「あたかも復帰してくるものが、単に復帰してくることによって現にあるがままのものを越えるように、、、」 要するに、ベートーヴェンの「再現部」は、虚偽の契機として。
“そんなの嫌だ!不可能だ!” の気持ちはそのままに、配置しておく、ということ。あくまで虚偽のままに・・・否定の肯定は、安易に調和に落ち着くことではない。静力学は、ベートーヴェンには似合わない! 「テーマがあって、展開して、再現を迎える。」その方式に当てはまること、慣習に従うことは、ベートーヴェンの内側から、ベートーヴェン自身が許さない。
「和解できないことを、イメージを通して和解させることを拒んでいる。」
それが、漠然とでも一種の欺瞞であることを嗅ぎ付け、避けようとする鋭い感受性の持ち主こそ、ベートーヴェンだった。
「不可能に反逆する」
そもそも、それを「不可能」と感じる根本は、彼の生まれながらの倫理観からではないのか? 彼の、「自己規制」へと向かわせるなにものかとの闘い。
そう!ベートーヴェンは倫理的な破壊者。いや、「破壊者」となったのは、結果にすぎない。どこまでも、正直で、 底知れぬ豊かさを持った人間だからこその、真理要求から来る、葛藤。だからこそ、むき出しの、絶対的「Nein!! 」が、ベートーヴェンの作品の随所に現れる。
その亀裂は、晩年期の作風に、特に形式の解体として現れる。 表面上は穏やかそうなリートが歌われていても、内実、不可能に対決した証として、断片化されている。明らかな民謡や動機、そして、ポリフォニーによる複合体、明らさまな素朴な欠片が、並列している。
バガテルop.126
ベートーヴェンの亀裂の隙間から、、「謎」が垣間見える。あぁ、以前の彼の作品の断片や、至極抒情的なものといった「慣習的なもの」のうちに、 彼は語る。
----「どこにもないユートピアは…ありふれた物質から合成できる」
その「彼」からのサインは見逃してはいけない。 応答せよ!\( ̄0 ̄)/
形式の解体は、それ自体、現象が内容であり、問題だ。されど、なぜ、解体されることになったのか?(>_<)
その経緯を、逆説的にベートーヴェンの心理的側面に目を向けることによって、 ベートーヴェンの音楽に底知れぬ漂う「悲哀感」を嗅ぎとる。それが、アドルノの生涯かけた「ベートーヴェン研究」の本質であるように思うのです。
アドルノと同じく、壮絶な亡命生活で命を落としたベンヤミンが、最後まで手元で大事にしていたクレーの『新しい天使 1920』にも通じる。
----地上の天使は、破局のただ中にあって、足元に積み上がっていく瓦礫を必死に繋ぎ合わせようとしている。
正直に生きた孤独なベートーヴェン自身を救出するかのように、アドルノがベートーヴェンに応える。
「違う」ということを、認めてあげる。
彼にとって、葛藤から生まれた「美的調和」になりえない「失敗」も、最高の意味を持つ場合に成功になり得る。それだけで、どれだけ世界を大きく感じることができるか、可能性が広がるか、ということを。
その200年後には、再びソナタに抗う「倫理的破壊主義者」が出てきたのではないでしょうか? 射手座のあなたとは、 裏星、あるいは支配星が全く同じ、同じ火の牡羊座のブーレーズこそ、tell me... あなたの孤独の呼び掛けに応じてくれる者として。 新鮮な驚き、葛藤を永続化させる方法を、このインクの染みの媒介物に落としこんだ者。
Beethoven生誕200年記念におくった、ブーレーズの呼び掛けの中でもう一度、彼のことを。
『tell me ベートーヴェンについて』。
あれから50年後の今、何が変わったのだろうか?・・・
「---今一度: 火山は死んでいるのか? 見たところ、否だ。 ---対話を交わし、/ tell me , ell me 輪郭を作っていく / elm, それらの声の間で---河、彼は、灌漑する。 そして人々は知らない。いかなる大海へ いかなる死へとそれが進んでいるかを。…」
私はきょうも、ベートーヴェンソナタ全曲演奏、無観客試合に参戦している!!q(^-^q)
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